2015年8月19日 (水)

柳原良平 逝去 2015年8月17日 享年84

・柳原良平氏が亡くなられた、享年84。

・開高健、山口瞳らとともに、寿屋・サントリー宣伝部の一時代を築いた一人。

・三人が居た時代のサントリー宣伝部、そしてその後のサン・アドは、商品を宣伝する、広告を作る、コピーライティングをする、そのいずれにおいても、気高く、プライドを持ち、誇り高く、自分たちが作る広告が、時代を引っ張り、人々を鼓舞し、文化を作り高めていくんだ!という気概が満ち溢れていただろうと思う。

・今年の夏、サントリーが行っているオールフリー「夏は昼からトート」キャンペーンで、オリンピックロゴの盗作が話題となっている佐野研二郎がデザイン(したといっている)トートバックが、他者のデザインの盗用ということがほぼ明らかになり、8種類のバッグをキャンペーン商品から取り下げた。しかし、俣野温子デザインの黒猫のイラストに関しては、あきらかに盗用しているだろうと思われるのにキャンペーン商品から取り下げなかった。

・サントリーのキャンペーン事務局は「佐野研二郎さんからの申し出を受けたため取り下げた」としているが、俣野温子デザインの黒猫のイラストに関してはそのまま使い続けるという。このデザインのパクリにかんしては問題がないとでも言うのだろうか。

・サントリー宣伝部を作り、開高健、山口瞳、そして17日に鬼籍にはいった柳原良平氏らの才能を見抜き、経営者としての力量で彼らを自由にそして伸び伸びと羽ばたかせ、才能を開花させた佐治敬三氏が、今も生きていたらなんと言っただろう・・・。そして開高さんや山口さんや柳原さんは、なんと言っただろう。

・今のサントリーは佐治敬三さんの長男である佐治信忠氏が会長として引き継いでいるが、佐治敬三さんの背中を見て、その経営哲学、信念を親の背中から感じ続けていた長男である佐治信忠氏は今この問題をどう思っているのだろう。お父さんの佐治敬三さんだったらきっと・・・・「そんなみっともない難癖ついたキャンペーンなど即刻やめなさい。金の問題じゃない」きっとそう言ったのではないだろうか?

・サントリーの今の社長はローソンの社長から引き抜いた新浪剛史だが、言ってみれば新浪剛史なんて金儲けのシステムをいかに効率よく実践するかということしか考えていないような「哲学、信念の無い輩経営者」だ。佐治信忠氏は会社の経営は君に任せてあるとして口に出さないのかもしれない。だが、父親である佐治敬三氏の哲学、信念を長男として学んだ者ならば、今の状況に一言いうべきなのではないだろうか。

「やめときなはれ、そんなんはウチの商売ではあらへん、お客さまを騙すようなことはするな」と。

・そして、もし今、サントリーの宣伝部に誇り高き開高健さんがいたら、きっとフロア中に響き渡るような大声で「ばっきゃもーん、直ぐにそんなキャンペーンは中止しなさい! 君たちには自分の仕事に対するプライドとか誇りはないんか!」と一喝していたのではないだろうか?

・ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige) 開高さんがよく言っていた言葉だ。「位高ければその責重し」

・今のサントリーにはそんな言葉を覚えている人もいないというのだろうか? 新浪剛史なんていうただの守銭奴経営者に会社を任せる、サントリーはそういう会社ではなかったはずだ。佐治信忠会長は今こそ父親から受け継いだ、そして開高さんや山口さん、柳原さんが創りだした高貴な文化をもういちどサントリーに思い出させるべきなのではないか・・・・。

・こんな情けない状況のなかで、柳原良平さんが向こうに旅立たれた。亡くなる前に今のサントリーの状況を見ていた柳原さんは、きっとほとほとにがっかりしていたのではないかと思う。

・あっちの世界に旅立たれ、三人がようやく揃って顔を合わせたところで、開高さん、山口さん、柳原さんは久しぶりに語り合いながら「サントリーはダメになった、あかん、気概がない、仕事に誇りをうしなってるわ」そんな会話をしているのではないだろうか?

・死の直前にこんなサントリーを見て、柳原さんもきっと「もおいい、俺達が必死で作り上げたあのころのサントリー宣伝部はもう死んでいる」そんな風に嘆いてあの世に旅立たれたんではないだろうか?

・柳原さん、そんなもんですよ、今の日本は。そういう誇りもプライドも責も持たない連中が大きな顔して闊歩しているのが今の日本なんですよ、向こうに言ったら開高さんや山口さんにもよろしく! 合掌

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2014年1月13日 (月)

高梨沙羅はすごすぎる!!!!!

・どう考えたって世界を凌駕しちゃう才能、そしてそれを全然ひけらかさない。日本フィギュアの安藤美姫とか浅田真央をみていると「頑張ってます」「頑張ってるんです」「努力してます」「苦しんでます」ってのが表に出過ぎててなんだかなぁって感じなのに、沙羅ちゃんに至ってはそんな雰囲気微塵もなし。(もちろん誰よりも数倍頑張っているんだろうけど)

・日本のスポーツ界にある、根性、努力、忍耐、そして終いには大金払って海外の有名コーチを引っ張ってきて、戦略的に勝とうとする・・・そういうどろどろ、ごてごてが高梨沙羅にはまるで無い。

。ほんとにサラーっと自然体で、気負いもなく、自分のあるがままで勝っているってかんじがする。

・スポーツ選手がよく言う「試合の勝ち負けよりも、自分らしい云々ができたら」なんて偽善的なセリフがあるが、沙羅ちゃんにはそんなものはまるで必要ないし、出てきたこともない。やってることがそのまま自然なんだから。

・これは今までの日本になかった稀有の逸材だ。

・アングロサクソン系のヨーロッパ人が作り上げてきたノルデックの世界に、アジアの人間として日本は常に衝撃を与え続けて来た。その度にヨーロッパの競技委員会は自分たちの誇りであるノルデックを自分たちの種族のなかで守ろうと、日本人に不利なルール変更をし、日本人が優勝できないようにと画策し続けていた。

・身長が低い日本人にとって身長+αしか板の長さをゆるされないというルールも日本人に対する封殺規定でもあった。それが・・・あんなちっちゃい沙羅ちゃんが、身長で数十センチも違うヨーロッパ、アメリカの選手を遥かに凌駕して勝ち続けている。

・もうこれは飛び抜けた才能、天才としかいいようがない。ルール変更やずるい手続きでその勢いを止めるということが出来るレベルではない。

・そんな凄い、凄すぎる沙羅ちゃんが、表彰台で15賞をあげた後。(勝ち取ったという表現はふさわしくないだろう)《楽しかった」って言っている。

・こんなすごい日本人はいままで居なかった。沙羅ちゃんはずばぬけて、とびぬけている今までのちっちゃい世界の中にいる日本人とは別の日本人なのだ。

・ソチ五輪・・・フィギュアよりのなによりも、沙羅ちゃんのジャンブに最大級の期待をしたい!!!

Sara6448735


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2013年10月13日 (日)

2013年クリスマス島フライフィッシング ボーンフィッシュ&GT備忘録

【クレージーチャーリー】
・カラーやサイズは色々ネット上でも言われているが、一番に安定していてハズレがないのは白っぽいフラッシュ・パール系。マイラーチューブやフラッシャブーのような少しキラキラしたカラーのボディーを作ればほぼ問題ない。

・ガイドは少しイエローが入ったフラッシュパールのアンダーヘアが付いているのがイイと言った。パールのフラッシャブーにイエローを少し混ぜたらちょうどいい感じになるだろう。

・イギリス人は、一番反応が良いのはサーモンピンクだと言った。ピンクそのものだとダメで、ヒメマスの身の色のような少し薄くて赤味のそんなに強くないサーモンピンク。ピッタリのマテリアルというと・・・船釣りのウイーリーで使うピンクが一番発色が近いかも?

・オレンジとかグリーンなども場所によって効果があるというが、無くてもいいだろう。オレンジやグリーンなどのガイド達もめったに選ばない色は、キャストしただけでボーンフィッシュが逃げていくことが多い。
・渓流のヤマメなどと違って、ボーンはどこかに定位するわけではなくかなりの早さで動きまわってエサを探している。ボーンフィッシュを発見してフライをキャストし、反応が悪いからといって別のフライに結び変えていたらあっという間にボーンはどこかへ行ってしまう。一番良く当たるフライを付けてボーンを見つけたらキャスト。逃げられたら次を探す。だからあれこれカラーで悩むよりフラッシュ・パール、サーモンピンク、パール&イエローの3つのどれかを結んでおき、ガイドの指示にしたがって時々カラーチェンジする程度で大丈夫だ。

・フライを付けていて、その日のボーンの反応が悪かったら反対色に結びなおしてまた別ボーンを探すことだ。同じボーンに何度も違うフライでトライという状況はまあほとんど無いのだから、反応が悪い、逃げると思ったら違うフライに結び直して新しいボーンを探すことだ。

・フックは#6でほぼ大丈夫、一応#8も用意しておいてもいいが、大きいサイズのフライに対してボーンの反応はすこぶる悪い。というか逃げる。水面が風で荒れていたり、太陽光線の角度でフライを目視しにくいなどというときに#8を結ぶ程度で、あとはずっと#6で通して大丈夫。

・ボーンフィッシュ用のクレージーチャーリーをタイイングするフックとしてはGAMAKATSU BONEFISH, TMC811Sなどのソルトウオーターに対応したフックが一般的には定番とされいるが、ちょうど出発前に円安になったりして、ティムコはパッケージの針の入り本数をかえるだとかで品番を変えるとかでなかなかフックが手に入らなかった。

・幸いがまかつのボーンフィッシュ#6が手に入ったが、どうもこれ一種類というのも不安。フックカラーが黒というのも好みとしてはイマイチ。

・そこで同じサイズのフックをお決まりの(株)土肥富 maruto マルト 釣針 に注文。ソルト用のNo.SS-6000の6号はガマカツ・ボーンフィッシュ#6とほぼ同サイズ。ただしシャンクは少し細く、ガマカツよりは弱い。(弾力性はあるので折れるというのはないだろう)クリスマス島のボーンフィッシュであればこのSS-6000でピッタリであろう。少しフックの弱さを感じるが、これを伸ばしてしまうようなサイズはめったに来ないだろうし、来たとしてもボーンフィッシュは強引な綱引きをするわけではないのだから、このフックでいいだろう。刺さりも特に不満はなし。

・もう一つ上のSS-7711も同時に購入したが、これだとちょっとシャンクも太いし、丈夫ではあるが刺さりも悪い。7711ならばもしもの大物用として数本巻いておく程度でいいだろう。

・フックのカラーは黒でもシルバーでもどちらでもいいということだが、ことクレージーチャーリーをエビと見立てるなら黒はないな。シルバーのほうがまだいいという気がする。よほどでなければフックの色は大きな影響を出さないと思うからどちらでもいいが、シルバーだけで巻いておけばこれも問題なし。フックの色で偏食はしないだろう。大事なのはボディーやウイングのカラー。

・ヘッドに付けるダンベルアイはリングチェーンという名称で宝飾用のチェーンとしてあちこちで売っているが、#6のフックにはリングの直径2mmのものがベストフィット。

・基本的に膝下位の水深の場所で釣りをするので、ダンベルアイ自体にそれほど重さは必要ないが、潮位が高い時に早くフライを沈降させたいという場合などもあるので、ボディーにウエイトを巻き込んだものを10個位用意しておけばいいだろう。ただしボディーにウエイトを入れるとボディーが太くなってしまい、これはボーンフィッシュには効果的ではない。ボディーをなるべく細くすらりとまくこと。ウイングもほんとにさらりという感じで、やぼったく厚く取り付けてはいけない。

ダンベルアイのカラーはゴールド一色でOK。シルバーでも問題はないが、シュリンプのイメージとしてゴールドでボディーカラーと明確に区別したほうがいい。実際水中でもゴールドのほうが目立つであろうし、ボーンフィッシュも見つけやすいだろう。ガイドもゴールドのアイを選ぶ。

・ロッドに関して、日本では#8,#9だという記述を多く見つけるが、そこまで強いロッドは必要ない。というかそれでは面白くない。#9はありえない。基本は#7で充分。風が強い状況の時に#8を選択すればいい。ボーンの釣りでは想像以上に細かくキャストを繰り返す。キャストの回数も非常に多い。直ぐ目の前に寄ってきたボーンに対して警戒心を抱かせて逃げられないように極力体の動作を抑えて手首だけでロールキャストをしたりすることも多い。こういったキャストの多さにタックルの重さは大きく影響してくる。ロッドにしろリールにしろ極力軽量なものがいい。#8を細かいキャストで半日も振っていたら手首が痛くなってくる。こうなっては釣りそのものを楽しめない。硬いロッドでボーンとやりとりをしていても面白みが半減する。オーストリア人やイギリス人は通常#7だが、風がなければ#6でも面白いと言っていた。風が弱い状況ならば確かに#6というのは面白いだろう。結論、基本#7で風が強いときは#8の二種類で充分。ロッドとリールはとにかく軽量なものを選ぶ(ドラグや耐久性も大事だが)。自分としては風が強いときにも#8であれば充分対応出来るだろうと思った。基本的に15m前後のキャストなのだから大丈夫。もっとも遠投したときでも25m位。これ以上遠いとガイドでもボーンは見つけられないだろう。ちょっとイレギュラーだがロッドは#7でラインはひとつ番手を上げて#8にしておくというのも手だ。これだと圧倒的に風にも対処できるようになるし、ロッドやリールを強くするよりも重量増は微々たるもので済む。#8のロッドにも#9のラインを巻いておけばかなり風が強い日でもほとんど大丈夫だろうがこれだと釣りそのものを楽しめなくなる。確かにクリスマス島は太平洋のどまんなかにある平らな国なので常に風が吹いているが、追い風であればキャスティングが上手でなくても#7で充分にラインはボーンの近くに運べるはずだ。

リーダーは0Xか02XがあればOK。0Xで先端が約3号(12ポンド)02Xで4号(16ポンド) なのでティペットは結ばずフライに直結する。ただし重要なのはリーダーの長さ。リーダーが短かくフライラインとフライの位置が近いとボーンフィッシュは警戒し、フライに食いつかない、または逃げていく。何度かボーンがフライにバイトせず逃げたりすると、ガイドはリーダーにティペットを継ぎ足してもっと長くするように言う。基本的にはボーンのジェットダッシュに万全であるためにはできればノットレスでフライとリーダーを繋いでおきたい。そのためにリーダーはなるべく長いものを選択すること。メーカーや種類は少なくなるかもしれないが、できれば14フィートかそれ以上の長さのリーダーを用意しておいたほうがいい。

・リーダーの素材はナイロンであってもフロロであってもさほどボーンの食いは変わらないだろう。スプーキーなボーンの場合はリーダーの素材などよりキャストやプレゼンテーション、フライそのものに対する警戒心や見破りというのが釣れない原因としては大きい。ただし、サンゴとのスレやティペットのよれ、ターンオーバーさせてボーンの手前に正確にフライを落とすことなどを考えればフロロの方が有利だ。手に入るなら0Xと02Xの14フィート以上のフロロリーダーを各一日3枚を目安に用意しておけば万全である。

クリスマス島のインターネット環境は良くない。太平洋のど真ん中の人口数千人に島だから、わざわざ海底ケーブルなどをハワイから引いても採算が採れないだろうしこれは仕方ない。だがWiFi接続に関しては徐々に各地に広がってきている模様。宿泊するホテルやロッジを決めたら、出発前にインターネット接続は出来るか確認しておいたほうがいい。イカリハウスに関してはWiFi接続が可能だった。2013年夏の時点では24時間まで接続できるWiFiのパスワードをロッジで10ドルで購入できた。この24時間は最初の接続から累積で24時間ということで、24時間以内というものではなかったので、釣りから帰宅して2,3時間接続してメールやフェイスブックを確認するだけなら5日間のロッジ滞在期間中であれば充分。ただし、接続速度はこれで繋がっているの?と思うほど遅いので、画像のアップロードなどをしていると相当に時間が掛かり、また途中で接続が切れることもある。クリスマス島からブログやFBへの画像アップなどをしないのであれば、10ドルで充分だが、あれこれアップしようとすると、3,4時間もかかってしまうので10ドル24時間では足りなくなるだろう。

                 

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2012年8月19日 (日)

『開高健とオーパ!を歩く』菊池治男著 これは大兄を慕う男からの恋文だな。

9784309020952・開高健の特集本、追悼本などを見ていれば、必ずでてくると言っていいほど開高健と多くの時を同じく行動した菊池治男さんが書いた、開高健との思い出の本!

・PLAYBOY誌の岡田編集長と一緒に茅ヶ崎の開高邸を訪れて初めて当時46歳の開高健と顔を合わせたのが28歳の時だというから、大作家との対面ということで相当に緊張しびっくりしたんだろうなぁ。自分が28歳だったころなんてホント青二才のなんにもしらない社会人だったし。46歳の人というのはとても歳をとったずっとずっと大人、というふうに感じていたものだ。

・その開高健に初めて会った時は「文字どおり口がきけないほどシビれた」と書かれているから、やっぱり開高健という人は相当以上に魅力的でカッコイイ大人だったのだろう。

・この本は菊池治男さんが”どれだけ開高健をすきだったか”と”どれだけ開高健に心酔していたか”が殆ど全部といっていいような内容である。書いてあることは殆ど開高健への懐かしく、親しみ深く、敬愛してやまない菊池治男さんの”好きだ”という想いだ。

・男同士だから好きだなんだというとホモになってしまうが、そういうのではなく、人間として開高健がどれだけ素敵であったか、自分がどれだけそこに惚れ込んで目を潤ませていたか、そういうことである。このブログでも何度も書いてきたけれど、本当に開高健という人は”人たらし”であり、触れ合った人を魅了する人であったのだなぁとこの本を読んでいると改めて思うのだ。

・少し前に細川 布久子さんの書いた『わたしの開高健』について”これは開高健への乙女のラブレターだ” と書いたが、この菊池治男さんの本は、言い方は変だが、男版の開高健へのラブレターなんじゃないかなと思う。

・『わたしの開高健」と『開高健とオーパ!を歩く』は、今から40年も前にはなるけれど、期せずして若かりし頃に強烈な個性と魅力を発する開高健という男に出会った、一人の女性と一人の男性が書いた開講健への男女それぞれの恋文ととっていいのではないだろうか。読み終えてそう思うのだ。そのくらい二冊の本には、そこに書かれている言葉には”開高さんが本当に好きだ”という想いが染みこんでいる。そしてそれがジンジンと伝わってくるのだ。

・最初に岡編集長が開高健邸へ電話をしたとき、電話口に出た牧羊子さんが「開高は舞台を選びます」といって企画が止まってしまったという話も実に凄い。これまた流石、詩人牧羊子である。

・面白いなと思った、フムと納得した部分はたくさんある。

「その喋りの語彙の華麗さ、風通しの良さ、知的射程のスケール、描写の猥雑な美しさ、開講健の文章がそのまま、呵呵大笑を何度もはさんで、テーブルの上に展開、発散していく」・・・いかにも開高健を意識したようなこの書き方。でも開高健をあらわす良い一文である。

「飛躍のないやつを誰が面白がる」「存在自体が面白いやつでないと、面白いものはつくれない」

「男子として生まれて最も恥ずべきことは、むっつりスケベである」

・電話魔とされる開高健から毎朝の電話に、夜帰宅して、酔っ払った勢いで自宅の電話線を引っこ抜いたという話も面白い。普通は編集者からの催促電話がうるさくて作家が電話線を引っこ抜くものだ。表札を外したという作家もいるし。

・「釣りの文章とは釣れんときにこそ、照り、艶、張りがでるもんや」

・アマゾンではせっかく用意した日本ソバを、ぐちゃぐちゃにのびきったなんとも言えない灰色のものに煮た!というのもまた面白い逸話。それにしても菊池さんは28歳にもなってソバの煮方もしらなかったのかと驚くけれど。

・アマゾンに行く前に牧夫人カラ「今回の取材は『PLAYBOY』誌の企画によるもので、不測の事態が起こった場合のすべての責任は開高健とその家族には関係なく、同編集部にある」とする1札を参加者全員と家族からとっておくようにとの厳重な申し入れがあった。」というのもまた凄い。

・同行して献身的に旅の手伝いをしてくれた森昭男さんが殺されたこと、カメラマン高橋昇とはお互いをアミーゴで呼び合うなかだったけれど、どこか距離感があって最後まで本当に親密にはなれなかったということ。

・開高健とのアマゾンの旅、その後の様々な体験に関して、今までは知らなかった秘話がたくさんでてくる。それを全部は書ききれないが、そういった一つ一つから開高健への想い、愛が感じられる。

・中でも、今では釣りをするときの常識となんている偏光グラスについて、初めてそれを紹介された時の開高健が「そんなもん使うたら、魚に卑怯やないか」(P.124)と言ったという件は非常に興味深い。そうか、魚に大して卑怯かぁ・・・・思ってもみなかったこの言葉に自分自身ちょっとハッとさせられた。

・そんなふうに、この本もまた在りし日の開高健の姿をまた一つ裸にしていくような本であることには違いない。でも、読者と開高健ファンとしては、またそれを貪るように楽しんで読むのである。

・正直にいえば、この本は文章としては面白くはない。菊池治男さんの記憶の断片が、それこそ断片的にブツブツと貼り付けられていて、一冊の読み物ととしてのまとまりには欠ける。ぶつぶつと途切れたお年寄りの思い出話を無理して聞いているような気持ちになる部分もある。

・でも、読み終えて感じるのは、やっぱり開高健への愛であり、懐かしさであり、親しみであり、寂しさである。菊池治男さんのそんな気持ちはあふれんばかりに詰め込まれ文字の間にまで染み込んでいる、そんな本でもある。

・もう開高健と行動を共にした人も少なくなってきているけれど、まだまだこれからも開高健に関する本は出てくるかもしれない。でも、この本と細川 布久子さんの『わたしの開高健』は、ただ単に開高健の昔話をするような本ではなくて、開高健を愛して愛して止まない男と女の立場からかかれたちょっと異色の、でも特別な、大事な告白本だと思う。

 

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2012年3月19日 (月)

BS-TBS《漂えど沈まず。小説家 開高健の遺した言葉》2012年3月18日

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・もう開高さんが亡くなってから四半世紀か・・・・。

・没後20年を過ぎてからも毎年一つか二つ、開高健に関する番組が出ているけれど、今回のものは今まで観た中でも一番中味の濃い、重い、深い内容であった。

・上っ面だけで開高健=釣り、として作っているような番組ではない。だいたい釣り番組などで「開高健のなんとか」とか名前のついている番組にロクなものはなかった。まったく開高健という人物に心を寄せているわけではなく、ただ単に釣り好きの有名人という捉え方しかせず、適当な釣りのシーンをくっつけて番組にしているようなものがほとんどだった。だが今回の番組は違った。開高健のその人そのものに心を通わせている内容だった。

・岩切さんの開高健を語る嬉々とした顔。

・モンゴルの釣り好きラムディン老人の自宅を再訪しているシーンが非常に印象的だ。当時の映像をDVDプレーヤーで家族に見せたとき、妻であるおばあさんが本当に愛おしい顔で思わず画面にむかって手を振っている。そのシーンに二人のとても強い愛情を感じた。その姿を見て涙を浮かべる岩切氏。

・ラムディン老人の孫娘さんが流暢な日本語で話す。日本に研修生として働きにい行っていたのだと。日本に来て異国で心細かったときに、鯉淵さんから届いた手紙をずっと持っていたということ。きっともしなにか困ったことになったら、と思って鯉淵さんの手紙を持っていったのかもしれない。でも自分からは連絡を取らなかったという。
「モンゴル人の感覚で、会えるときがくれば必ず会える、自分から叫ばなくても」そう語る鯉淵氏の言葉を聞く孫娘さんの目が遠くを見つめている。その目の捉える先には、ひょっとしたら日本での苦労があるのかもしれない。でも笑って「これも縁なのです」という彼女の顔には今、開高健を通して再びこうして巡り合えた人たちと神様への想いが滲んでいた。

・掛かったイトウを糸が切れて逃がし、悔しさのあまり銜えていたタバコを地面に叩き付けるシーンは、ちょっと・・・と言いたくなる部分でもあった。大物を逃がしたときのとてつもない悔しさは分からなくはないけれど、タバコをくわえながらやり取りしていたのでは、ましてやラインが切れて悔しさのあまりそのタバコをモンゴルの台地に叩き付けるというのは・・・きっと開高さんとその仲間だから、あのタバコはちゃんと拾ってそのまま捨ててきたなんてことはないだろうと想像するけれど、どうも・・・このシーンは。ましてや開高さん、銜えタバコをしながらロッドを振っていたんでは、いざ大物が掛かったときにちゃんとした対処が出来ないだろうし、あの流れだったら少し自分から川を下って魚に近づくほうがいい、力任せに寄せようとしたのではラインは切れてしまう・・・。翌年の釣りでようやく釣れたイトウのエラに手を差し込み持ち上げるシーンも、魚に対する労りや優しさが感じられない。開高さんが提唱し広めたとされるキャッチ&リリースだが、その方法や作法も開高さんの生きていた時代からしたらずいぶん進歩している。今開高さんの釣り方や、魚のリリースにしろキープにしろその扱い方を見ていると、魚に対して乱雑で粗暴にさえ感じる。でも四半世紀前はこんなものだったのだろうな。もし開高さんがずっと生きていてこの自分の映像を観たら「キャッチ&リリースの方法として、魚の取り扱い方としてあの時のやり方は良くなかった。すまん」と言うんじゃないだろうか・・・と思う。

・そんな開高さんについて岩切さんが語っていることが非常に印象的だ。

「二人だけで寝ていてガバッと4時頃に起きて、物凄い恐ろしい形相でじっと胡座かいて、じっと口もきかないで、なんていうか恐ろしい顔で・・・何度となくそれはありましたね。なんか僕はたぶんその、ベトナムのことだったのか分からないけど、非常に考えていましたね。危ないなって感じでしたね。このままじゃちょっとね、自殺されるんじゃないかね、何かがないとね、という思いをしたことが何度かありましたね」

ベトナムで生死の境から生き延びたことか、あの少年の公開死刑を見てしまったことか、あの戦争のむごたらしさと人間の悲しさと空しさを心に染み込ませてしまったことか、それとも・・・夏の闇のあの女性が交通事故で不慮の死を迎えてしまったことか・・・開高さんにとっては悲しさや空しさ、苦しさが波のように心のなかに沸き上がり押し寄せてくることが多々あったのだろう。それをなんとか忘れ押しとどめ自分が死を選んでしまわないために、希望を持つ為に、釣りをしていたのであろう。

・とことん絶望したら書くしかない・・・それが開高健の辿り着いた人生の境地なのだろうか。

・文学とは何か、そこにかろうじて共通項を見ていくと、難しいけど一言で要約すれば”助けてくれ”って叫び声になるんじゃないだろうか。それがいろんなことになって出てくるのが文学なんじゃないか。・・・・そうかもしれない、いやだが、それはとことん絶望の果てに辿り着いた開高健の最も激しい、他の文学者とはことなる叫びだ、けっしてそれは文学者の共通項ではないであろう、特に今の時代の文学者においては”助けてくれ”という叫びはあるといえない、その方が多い。

・モンゴル国営TVのグルバザル氏と牧洋子夫人が泣きながら抱擁しあっている場面は、初めて見たということもあるけれど、思わず息が止まった。

・「開高さん、あなたが亡くなって23年、なんだか日本はえらいことになっています」「大いなる日は終わりました。円は完全に閉じました」その言葉で締めくくるこの番組は、今まで放送された開高健の番組のなかでも異色であり、だがいちばんに開高健の本質を捉えている。いや今までの番組が異色であり、この番組こそが本流であったのだ。素晴らしい内容の1時間半であった。

http://jack-gen.blog.so-net.ne.jp/2012-02-21

http://jack-gen.blog.so-net.ne.jp/2012-03-15

http://blogs.yahoo.co.jp/kugel_149/38819551.html

http://yrinri.exblog.jp/17329570/

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2012年1月10日 (火)

『わたしの開高健』 細川 布久子 これは開高健への乙女の恋心、片思い、忍ばせた淡き想いの告白。

Watashino

『わたしの開高健』 

著:細川 布久子

・遅れ馳せながら年が変わってからようやく読んだ。面白半分で開高健特集号を担当した人で、幾つかの開高健本でそれとなくその存在が書かれていた人だから「あ、この人が本をだしたのか!」と驚くと共に、きっと他の多くの開高健本とは違った興味深い内容になっているだろうと期待もしていた。

・高橋昇氏曰く「人たらし」と言わしめた開高健に関する著作の殆どは開高健と関わった男性がかいたもので、女性が書いたものは少ない。妻である牧羊子、娘である開高道子が書いたものはあるが、特集本のコラムや寄稿などの他で”女性”が開高健について書いたものというのは他にあっただろうか? そういう意味でもこの本は貴重であろうお。

・読み始めて最初のほうは「面白半分の編集者にしてはちょっと文章が緩いな」と感じたのだが、なんとなんと、ページを捲るにつれて勢いと情熱が文字に乗り移ってきたかのようで、数ページ読み進むとその修辞や文体はまごうことなき開高健スタイルに変わっていった。
・読んでいてそれこそニヤリ、クスっと笑ってしまうようなそのまま開高健といった文節もたくさんある。きっと大好きだった開高さんをしっかりと真似て書いたのだろう。ただその真似は形式だけ、表面だけを真似ているのではない。その開高健流の文節の中に慕う想い、恋する思い、近づきたい想い、そんな乙女の恋心が滲んでいるかのようだ。

・この人、フクちゃん、細川布久子さんは、本当に大兄のことが好きだったんだろうなぁって、本の一頁、一頁、語られる言葉の一つひとつからその恋心が浮かんで見えてくる。

・純真な乙女が恋心を抱いた相手を、自分の思いをぐっと胸に秘めて、”好きです”という言葉を飲み込んでいつも遠くから、離れた木陰から見つめている。そんなまるで戦前の女子中学生か女子高生のドキドキ、じくじく、もう苦しくて苦しくてでも打ち明けられないというような片思いの気持ちがこの本にいっぱい溢れかえっている。

・この本は開高健について書かれた本だけれど、その実は開高健についての本ではなくて、開高健にずっと恋をしていた(愛していたとはちょっと違う)乙女の淡い恋心の純真な告白なのだと思う。

・言葉の、文章の、ページの端々から抑えようとしても溢れでている愛しき人、開高健への想い。そんな乙女の恋心で満ち溢れている。少女の恋愛日記を読んでいるかのような淡く、切なく、純情でひたむきで意地をはって、悲しくて、耐えて、それでも頑張っている少女の姿。

・こんな風に秘めた恋心とその純真さに満ちている本というのはまず無い。開高健のファンは男性が多いけれど、女性がこの本を読んだなら、きっと自分が若かった少女のころ、好きな人に打ち明けたくても打ち明けられない恋心に胸を焦がし、その思いをなんとか鎮めたくて日記帳に書き綴った文章を何十年かぶりに読んで、当時の純真な想いに深く息を飲み込んで目を瞑る、そんな風になってしまうのではないだろうか。

・開高健没後20数年。今でも年に何冊か開高健関連の本が出ているけれど、こんな本が出るとは思わなかった。

・これはもうこの世にはいない開高健への恋文であり、いままでついぞ言うことのできなかった淡くだけど熱く秘めた想いの告白なのだ。


・今まで知ることの出来なかった開高健の姿、妻との関係なども新しい事実があれこれ書いてある。このブログでは読んだ本を忘れないように、感動したり記憶に残った内容を書き留めて備忘録がわりに使ったりしてきたけれど、この本に関してはそれはできないな。開高健に関する興味深い新しい事実も色々あるけれど、それは読んだ人が受け取るものとして、ここに書き起こすのはよそう。だって、これは純真な乙女の恋文なのだから、それを書き写すというのはあまりに無粋であろう。これを読んだ人がフクちゃんこと細川布久子さんの切ない思いを感じらることができたならそれでいいのだろう。

・ただ1つだけ、開高健が釣りに行く時に愛用していたあのトートバッグ。ABUやガルシア、ミッチェル、ラパラなどのワッペンがたくさん縫いつけられたあのトートバッグ、あのワッペンを縫いつけたのがフクちゃんだったのだという告白を読んだ時は本当に驚いた。そうだったのか、あのバッグはフクちゃんがなれぬ裁縫で開高健に頼まれて縫いつけていたものだったのか。そう思って改めて開高健特集本のあのトートバッグの写真を見ると、フクちゃんはどんな思いでこのバッグに針を通していたのだろうと、大好きな人のセーターを編んでいる少女の姿が思い浮かんでしまって少し目がうるうるとしてきてしまった。

・でももう一つだけ、細川布久子さんは女性の目で開高健の妻、牧羊子さんのことを書いている。ものすごく愛していた、愛しすぎていた、自分だけで独り占めにしたかったのだと。それが「夏の闇」を境にして憎しみに変わっていったのだと。自分以外の女性との濃密な恋と肉体の関係をあからさまに小説として発表されてから、その嫉妬、怒り、苦しみは相当のものであっただろうと。

・このことは菊谷匡祐氏も谷沢永一氏も同じようなことを書いている。『夏の闇』発表以降、開高家は修羅場と化したと・・・。

・今回、細川布久子さんが「牧羊子さんは夫である開高健を愛し過ぎるくらい愛していた」という女性の目での気持ちを綴っている部分を読んで、今まで悪妻として開高健を苦しめていたという側面ばかりが強調されていた(島地勝彦氏の発言や著書はそういう口調が強い。彼も開高健を独占したかったのかもしれないから奥さんとは対立していたのだろう)が、愛しさ余って憎さ百倍というようなものがあったのだろうなと、少し牧羊子さんを見る目が変わった気がする。

・また、細川布久子さんは開高健に関わる女性のことには深く踏み込まないでいる。きっと夏の闇のモデルとなった女性のことも、パリに居たときに開高健とつながっていた高恵美子さんのこともフクちゃんはだいたいを知っているのだろう。でもそこまでは踏み込まない。それが同じく開高健を慕い、愛していた女性としての女性だからできる思いやりであり、開高健を好きで好きで仕方がなかったのに、その妻にもなることができなかった同じ女性への共感となぐさめ、思いやりなのだろう。

以前このブログでも書いたが、「ごぞんじ 開高健」の中で阿部満春氏がこんなことを語っている。「最近どうもいろんな人があたかも裸にしようというような感じで、研究というかそういう形で次々開高さんの評論や評伝などに取り組んでいますよね。 私としてはあんまりプライベートなことで裸にしてほしくない。その作品で開高さんを理解してあげるべきだと思うことがこの頃よくあるんです」と。

この考えには同意する。でも開高健のファンとしてはもっと色々と大兄のことを知りたいという気持ちもある。没後20数年経っても毎年のように開高健関係の本は出版されている。その中で少しずつ今まで表に出ていなかった裏話がポロポロと表に出されている。それは面白いし興味ぶかいことなのだけれど、やはり生前の開高健を、その隠しておきたかった裏までひっくり返して衆目に晒すようで、ちょっと罪悪感、疑念もある。出れば読むし、読んでまたひとつ開高健を知ったと納得してしまうのだけれど。

・たぶん、これからも何冊も開高健絡みの本は出版されるだろう。たぶんこれからもたくさん開高健の秘話が表に出てくるだろう。プライベートな部分は裸にされていくだろう。セシリア瀬川シーグルさんとの130通に渡る往復書簡もあると坂本忠雄氏は言っていた。

・まだまだ、開高健は裸にされていくのだろう・・・そしてそれを自分は読み続けていくのだろう。

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・この本の中でも細川布久子さんは何度か「ごめんなさい、もういいですよね」と言って、今まで表に出なかった故人のことを書いている。そんな風にして偉大なる小説家の姿はどんどんと服をはがされて裸にされていくのだろう。

・でも、この本は小説家を裸にしているのではなく、フクちゃんこと細川布久子さんの心の中をこそ裸にしてさらけ出している告白なのだから、きっと細川布久子さんは顔を赤らめながら、恥ずかしがりながらでも自分の中の大切な淡く、熱く、ずっと秘めていた恋を文字にしていったのだろうと思うと、ペンを握る細川布久子さんの姿が髪を束ねてセーラー服で机に向かい、日記に文字を認めている女学生の姿に重なって見えた。

・この本の文章は瑞々しくキラキラと光を反射させて流れている里の小川のようだ。ほんとうに、まるで女学生が書いた恋文のような文章だ。細川布久子さんは1947年生まれということだから、今は64歳にもなっているのに、この本とこの文章に64歳のおばあさんという印象、雰囲気はまるで、これっぽっちも感じられない。きっと細川布久子さんは、64歳になっても、その心と気持ちは大学を卒業して、面白半分編集部に入って、開高健と出会った20代のまま変わっていないのだろう。でなければこんな瑞々しく、淡く切ない女学生が書いているような文章と本を書けるはずがない。

・細川布久子さんは、きっと今でも、初めて開高健に出会った20代の時そのままなのだ、開高健に出会い、憧れ、恋心を抱き、ずっと慕い続けていた20代のころと同じ気持を,変わりなく持ち続けている人なのだろう。そんな風に思う。それはとても素敵なことだ。ちょっとだけ淋しさもあるけれど・・・・。

 

 

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2011年12月 2日 (金)

『わたしの3・11 あの日から始まる今日 』

原発擁護、東電御用学者の烙印がしっかりと押された茂木健一郎。なにもその茂木健一郎編としてこういう本をださなくてもいいんじゃないのとまずはおもう。
毎日新聞社にしろこの本の企画編集者にしろちょっと頭おかしいんじゃないの? 中身は別に編じなくてもできるような、当世のあれこれ人の思いつきやツイート程度のざっくりさらっと書いたものを集めただけ。
震災当時気仙沼にいたサンドウイッチマンのところはちょっとマジで読んだけれど、サンドウイッチマンは震災当日は電気も通らない気仙沼駅近くのホテルにいたということだが、翌日には迎えの車が来てくれてTBCのある仙台まで戻ったということだ。あの激烈な震災と津波の後、気仙沼には車も入ってきてサンドウィッチマンは仙台まで戻った。ここにその時の状況の一端が出ている。震災と津波はあちこちに被害をもたらし、沿岸部は壊滅的な状態になったけれど、内陸から沿岸部へは時間がかかったとしても震災翌日でも通ることができたのだ。気仙沼に居るお笑い芸能人を引き上げることができたのだ。 そう、道路はあちこち亀裂が入っていたりしても、通ることはできたのだ。それなのに被災地ではガソリンも食料もなくなり大混乱になった。それは民主党菅政権が震災後、高速道の通行止めたせいなのだ。政府が指定した一部の緊急車両以外は被災地に入ることが出来なかった。多少の制限は必要であったとしても高速の通行止などしていなければ、震災後直ぐに支援物資を被災地に運び、被災者をもっと助けることもできたのだ。震災にしろ原発事故にしろ菅災なんて言われているけれど、まさにその言葉があてはまる。震災直後だって物を運ぶ道路はなんとかなった。サンドウイッチマンを悪く言うつもりはないが、芸人を引き上げる車が震災翌日には入って来たくらいなんだから救援物資を運ぶ車なんて被災地に入ることは可能だったんだ。そうしていれば物資がない食べ物も、燃料もないとんでもない状況がどれだけ緩和されていたことか。この本に書いてあることを読むと、計らずも震災当日、翌日の実際の状況が垣間見える。もっと救援車両も支援車両も被災地には入ることが出来たのだ、もっと人を助けるとこも、3月の寒さのなかで何もかも流された人たちをもっともっと助けることも出来たのだ。
ノンフィクション作家石井光太の章にはこんなことが書いてある。この本のなかで石井光太の章だけは、偽善ではない震災の状況、被災地被災者への思いを書いているとおもう。

・多くの人々は遺体の写真なんて求めていない。もっと日本を励ます記事をという。だが実情は放射能の危険を煽ったり、凄惨な写真が載っていたりする雑誌のほうが売上が高くなる傾向にある。日本を勇気づける記事は賞賛はされるものの、売上にはつながらず、逆に危険を煽るような記事のほうが批判されても売れる。
・有名なメディアの社名も一緒に記されたプレスの腕章を付けたカメラマンが遺体を見つけるとシャッタを押し始め、一通り撮り終えると、辺りを見回してからビニールシートを剥がし、遺体の顔を撮った。傍から見ていて、さすがにやり過ぎではないかと思い、いくらなんでも許されることではないと、直接批判するより、バッグからカメラを取り出し、遺体を撮っている彼らを写真におさめた。カメラマンが私の行為に気がつくとバツの悪そうな顔をしてシャッターを押す手を止め、一人が慌ててブルーシートを遺体に被せる。自分たちが悪いことをしていたのをわかっていたのだろう。 ・「同じメディアの人間」だと思っていた私に裏切られて狼狽したに違いない。私が黙って立ち去ろうとすると、一人が追いかけてきておずおず言った。「その写真、公表しないでくださいね・・・・・・家族がいますから、顔が載るとまずいんです」私は黙って背を向けて立ち去ろうとした。すると少し間をおいて男性が走って追いかけてきて前に立ちはだかった。「あなただってわかるでしょ。俺たちだって好きでやってるわけじゃないです。社に命じられたらやるしかないんです」と言った。「本当に会社に頼まれたのですか」と言うと「当たり前ですよ。なら、なんでこんなところに来ているんですか。好きで遺体を探して歩きまわるわけがないでしょ」遠くにいるもう一人のカメラマンが不安そうに私を見つめていた。
・被災地のニュース番組では、避難所で炊き出しを手伝う女子高生への密着インタビューが映っていた。温かいおにぎりとお雑煮を沢山作ってお年寄りに配っていた。私はテレビのニュースが女子高生の炊き出しを特集すること自体を悪いこととは思わない。だが、災害報道が一巡したと見なし、すべてのメディアが一斉に「復興」「希望」「支援」というテーマに舵を切っていくことに納得がいかなかった。しかも映し出される避難所はほとんど同じ所である。まだまだ報じることはたくさんあるのではないか。
・「震災の三日目辺りから、視聴者は悲惨な状況にうんざりしているから、避難所でペットを可愛がっている老人の話とかを拾ってこい。頑張っている女子中学生を見つけろ」と指示された。生活に困っている人が膨大な数いるのに、そんなニュースばかりつくらされるんです。自分の意思と会社の指示に開きがありすぎて辟易します・・」
・これが小さな事件や事故なら不平を漏らすつもりはない。だがこの未曽有の災害に対しては報道の市営を変える必要があるのではないか。にもかかわらず、多くのことを時迄通りの文脈に当てはめ、片付けていいものか、

そこそこに名前が知れてる人を並べてそれだけじゃ足りないから他の人でボリューム稼いでという感じか。
バランスを取るためか原発容認派(だった)人と反原発の立場の人を適度に混ぜているというのもいかにもというあざとさの見える構成。
竹内薫が震災前から「今の原発は安全だ」と言っていたことを突き上げられ「一つの業界団体からもらうお金(講演料、原稿料)を収入...の3%以下に抑えるシーリングを自らに課してきた。そうしないとサイエンス作家としての中立性を保てないと考えたからだ」などと言っているのは白々しい自己弁護の言い逃れにしか聞こえない。だが、僕は、今回の原発事故を機に「原発推進派」の烙印を押され、嘘の「原発神話」を広めた人間として断罪されることになった」とも書いているが、まさにそのとおり。
茂木健一郎にしろ勝間和代にしろ竹内薫にしろ、もう原発擁護をいけしゃあしゃあとしていた人物という烙印は消えることはないだろう。
上杉隆が震災直後に官房長官の記者会見からフリー、ネット、海外メディアの記者が締め出され「緊急事態だから記者クラブ限定」とされ情報を遮断されたことに抗い続けた記述が一番この本のなかではまともだ。政府と東電はずっと情報隠蔽ばかりしていたのだから。
なんにしても原発擁護学者茂木健一郎を編者などとして名前を掲げている事自体、この本はおかしい。そして異常。それは東電や政府と全く同じ体質から出ているのではないだろうか・・・・。
なんともこの本も震災便乗ビジネスの一つに思える。

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2011年12月 1日 (木)

忠さんの訃報

・昨日、常見忠さんが亡くなられたと聞いた。

・もうだいぶ歳であったし、たまにTVで見る映像も随分痩せて、からだも喋り方も弱々しかったから、いつこういうことになっても・・・と感じていたけれど。

・銀山湖で大岩魚をルアーで釣り上げ、日本のルアーフィッシングの開祖、大兄たる忠さんもあっちの世界に行ってしまった。もうフィッシュオンの時代から十分すぎるほど時間は流れたんだもんなぁ。

・あの頃の人もどんどんといなくなっていく。

・でも、忠さん、向こうで久しぶりに開高さんと会って、懐かしく釣り話でもしてるんじゃないだろうか?

・ちょっと悲しいけれど、ご冥福をお祈りします。

・忠さん、たくさんの釣りと夢物語をありがとう。

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『日本人は何を捨てて来たのか』思想家・鶴見俊輔の肉声

・鶴見俊輔と関川夏央の対談を文字に起こしたもの。雑談のようなものを文章化しているので読みやすいが読み物としての奥はない。二人の様々な考え、思考方法を聞いているようなものであり、こういうのは本としては不完全。でも副題にあるように、純粋に喋った言葉を一冊の本に起こしたというのだから、それでもいいのか?

・P.207「日露戦争の1905年から今の退廃が始まった」「
P.208「戦後、占領軍は東大と文部省、それに天皇を残したでしょう。指導者を養成するんだから同じことになる。ただ一つ違うのは、戦前は東大を出て官僚になったら賄賂は取らない。健康させ保てば必ず安定する。戦後は東大を出て官僚になって、かなり高いところにいっても賄賂を取るようになった。これが戦後の変化です」
「給料を倍にして、賄賂を取ったらすぐに懲役、と法律で変えたらどうなりますか」
「もう遅いでしょう。ローマは一日にしてならず、この日本の腐敗は一日にしてできたものじゃなち。1905年から100年経っているんだから、私はダメだと思う」

・今回の震災や原発事故であちこちで騒がれ、以前から言われていることがさらにあぶりだされたわけだけれど、結局日本の癌の巣窟は霞ヶ関であり、日本の膿は官僚であり、官僚制度が日本をこれだけだめにしたのだということに行き着く。その膿は早く取り除かなければいけないのだけれど、治療できないくらい組織防衛が激しい。

・一度霞ヶ関全部をぶっ壊さない限り、日本はこのままだめになるのだろう。

・明治維新後の明治政府で山縣有朋が作った官僚制が現代にまでその悪弊をもたらしつづけている。結局明治維新は徳川幕府を倒すところまでは良かったが、その後、日本を変えようと頑張ったものたちはみな殺され、新しい政府は薩長土佐藩の出身者で占められ。四民平等などと謳いながら、実質は自分たちを華族とし権力を集中させ、自分たちの都合のいいように法律を作り直し、自分たちがコントロールしやすいように中央集権化を進めた。

・明治維新は明らかな失敗だったのだ。明治政府が出来上がってから以降はどうしょうもない利益誘導と権力の座に着いたものの都合のいいように作り上げられたのが日本であり、敗戦後もそれがずっと続いているというのが今なのだ。

・戦後の政治家や官僚が丸山眞男を教科書の様に読んでいたというのが不気味。それでこんなどうしょうもない国を作ったのかと・・・

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2011年11月26日 (土)

『困っている人』大野更紗

強烈だ。25,6歳でこんな難病にかかって、体がボロボロになって、お尻が溶けて穴が開いて、腕に脂肪が吹き出して石灰化してなんて。それをこんなめちゃ明るく書いてるが、とんでもない状況なんだろうと思うと苦しくなるなぁ。
行政、病院、身障者ケアの矛盾、異常さ、そういうところもしっかりと、だけどあっけらかんと書いている。
著者の写真も可愛く明るい感じだけど、それも女の子なんだからきっと最大限の努力して撮影してるんだと思うとさらに胸につまされる。
うーん、紹介されなかったら読まなかっただろうけど凄い本だ。
「結局身障者に対する根本的な支援というのは(このダメな)国の政治や組織、仕組みを変えることだ」
というのは今の震災支援、復興なんてのにも当てはまる。
ふーしんどかった、でもこの更紗さんはこんな状態でもまだ生存してラジオでたりしながら活動してるんだから、すごい。
この本が売れることでかなり医療費が助かっているだろう。それも支援か

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2011年11月21日 (月)

『なぎさホテル』伊集院静

とりあえず感じたところ、気になったところを羅列。あとで修正。

■どきどき、わくわくしながらページをめくる。こういう本は本当に久しぶりだ。滅多にない。
なぜこの本がそんなふうに自分の気持ちを高ぶらせるのか、秘密の宝箱を開けるような胸のときめきを感じさせるのか。
それは自分が知らない頃の逗子の様子を、雰囲気を”なぎさホテル”を通して感じさせてくれるかもしれないからだ。そして伊集院静という人の破天荒な人生がどういったものだったのか、その破天荒な人生の一時期をこの逗子で送っていたということを初めて知ったからだ。在りし日の”なぎさホテル”で一体この人はどんな暮らしをしていたのだろう。ページをめくるたびに感じる驚き、そしてときめき。ちょっと悪さを思いついて彼女の日記のページを開く・・・そんな感じに似ている。

■きっと”なぎさホテル”での日々は伊集院静にとっては辛く厳しい時期でもあったのだろうけれど、同時にキラキラと輝いていた時期でもあったのだ。
言葉を読み進める程に、そのきらめきが本の中から、並んだ文字から自分に伝播してくる。
信じられないような生活だけど、羨ましくなるような日々。
その日々の中に登場する心優しい人々。それが作り話ではなく、あざとさや虚栄のない純粋で素直な言葉で描かれている。
多少の脚色も入っているかもしれないが、この本に登場する人々と作家の姿はありのままの実際の姿に思える。

■誰かの秘密をのぞき見するような気分でもあったけれど、わくわくし、どきどきし、ときめきながらページをめくり、文字を読んだ・・・久しぶりの体験。
最近ずっと忘れていた本を読む楽しさやときめきを感じさせてくれたとても良い本だ。

■最後のページまで読み終えて、余韻を確かめるように開いたままの本を胸にあてて目を閉じた。時計台のあるホテルと逗子の浜辺、そして潮の香りが頭のなかに浮かび上がってきた。

懐かしさ、悲しさ、寂しさ、甘酸っぱさ、ほろ苦さ、温かさ、そしてときめきを感じさせてくれるいい本に出会えた。

□伊集院静が作家になる前の7年間を逗子のなぎさホテルで過ごしたという話は寡聞にして初めて知った。驚きだった。
それも宿泊費もしばらく払わずに支配人の好意でずっと逗留していたとは。川端康成は伊豆湯ヶ島の湯元館に女将の好意でほぼ無銭で長年宿泊していたというが、伊集院静の場合もそれに似る。
文学者や才覚のあるものは自身が発する才能の光で人を魅了し、自身が意図せずともパトロン・庇護者を見出すということなのだろう。それは大昔から変わっていないものなのかもしれない。芸術はパトロンなくして成立しないとも言われるけれど、やはり自然となにするわけでもなく自分の庇護者があらわれるというのはそれもその人の才覚であり、人をひきつける魅力。パトロンとなる人も才覚を自分が高める助けをすることで、その人を庇護した、育てたという自分の誉れを形にしたいと考えるのだろう。

□それにしても、大学を卒業し就職した広告代理店を一年数ヶ月で辞め(本人は馘首されたとしている)無職の身でふらついていた逗子の海岸で、なぎさホテルの支配人に庇護を受ける・・・まるで映画のような話だ。しかしそれが現実であり、離婚や離職で打ちのめされていた男にも関わらず、ホテルの部屋を世話した支配人は、伊集院静その人としての存在になにか普通ではない輝きを見つけ、そこに何かの可能性を見出し庇護したのだろう。落ちぶれていた伊集院静には落ちぶれていたにもかかわらず人を魅了するなにかが宿っていた。それが見える人には、感じることのできる人には分かった・・・ということなのだろう。

□東京を離れる前に関東の海を見てみたいと湘南を訪れ、そこでめぐり逢ったホテル。本人は金が殆ど無いということを書いているが、素泊まりの宿を探し、ビールを飲み、鮨を食いという記述を読むと、これなら決して金が無かったわけではあるまいと取れる。離婚した妻への慰謝料の払い、そのために親戚知人から借りられるだけ借金したということだが、そこまでしてすっからかんであれば葉山で3000円の素泊まりの宿になど泊まれないし、金がなかったらそれこそ葉山乞食なんて言われていた人と同じように浜辺にビニールシートを敷いて野宿するとか、駅のひさしの下で浮浪者のように寝泊まりするとかそういうことになる。

□浜辺をうろつき近くのレストラン風の建物に入りビールを飲む、逗子の駅前のスナックに言って酒を飲む、鎌倉で鮨を食う。本当に貧乏ならそんなことが出来るはずがない。金には困っていたのかもしれないが、当時としてもそれなりの手持ちはあった状態で動いていたのだろう。その辺りは読んでいて、金がない金がないと書いていながら、なんだこれは?と多少なりとも嘘をついている、ごまかしていると感じるのだが、この人にとっての貧乏や金が全然ないというのは、飲み屋に行って、バーに行って、鮨を食って、宿に泊まって・・・それ位の金は持っていても、広告代理店でかってのように派手に遊びまわるほどの金がかったという状態を言っているのではないかと、訝る。

□昔の映像制作の仕事で関わった人物と鎌倉で偶然出会い、さっと金を都合付けてくれる。ホテルに振り込んでくれる。ホテルとしても不思議に思いながら、なにかこの人は特別なことをやっているんだろうと思うようになっただろう。
なぜか助けてやりたくなる人というのが世の中にはいるものだが、伊集院静にはそういう雰囲気があったのかもしれない。
それにしても本人が金に無頓着だといってはいるが、せっかく振り込んでもらった30万を宿賃を精算した後で、残りの金で高額な文学全集を買うなど、いや、本当に金に無頓着というか、この人は金はどこからか舞い込んでくるという確信めいたものがあってこんなことをしていたのではないか?

□しかも、その後、鎌倉で寿司屋に入る。当時の伊集院静は28歳ほどの年齢だ。今だって30前の男がふらりと寿司屋になんか入らない。金が無いといっているのだからどこか安い定食屋でも探すのが普通だ。ようするにこういう記述を見ていても、当時の伊集院静は金が無いのではなく、充分に遊行し旨いものを飲み食いする金がないというそういう意味での金がないということだろう。普通の感覚よりは金を持って歩いているのだ。就職した広告代理店で羽振りよく派手に仕事をしていた遊び回っていた余韻がまだ体の中に残っていて、傍から見れば贅沢な生活が出来ないという意味での金がないないなのだ。ここまで読むと少しこの人はオカシイなという気持ちにもなってくる。

□浮世離れした変わった人物、だがそこに才能の光が宿っている、だから人はこんな人に親切にし、金を貸し、ホテルの部屋をタダで提供し、庇護した。

□社会人になって賞品目当てで応募した雑文の公募に「一つ目は千人余りの作品の中で特賞、二つ目は三千人余りの中でこれも特賞一席、三つ目は三等佳作」というのは流石に驚く。入社一年目の広告代理店でトップの成績だったという話も聞くが、なにか天才肌であり、人にはない才を感じさせ、それを使って人にはできないことをする才能が確かにこの人にはあったのだろう。しかしそんな会社も二年とたたずに辞めるようであるが。

□ホテルに住むようになって半年目に、会社員時代に手がけたCMの演出で逢った女性と久しぶりに逢い付き合うようになるというくだりで「丁度、その頃、私は鎌倉にある鮨屋の夫婦に親切にして貰っていた」とある。この辺をさらりと書いているが、やはり金がない金がないと言いながら、鮨屋に足しげく通って食事をしその店の馴染みになるなど、30手前の無職、無収入の男に出来るはずなどなく、定職、定収があったとしても普通のサラリーマンは30手前でそんなに鮨屋に行ったりしない。700円で食える定食が寿司屋では数千円かかるわけだから。こういうところからもこの人の書いている貧乏や金がないは、普通の感覚でいう金がないというのではないということがわかってくる。普通の感覚からずいぶんと乖離している人だとも見えてくる。この人の金がないは「以前のように羽振りよくする金がない」なのであり、通常感覚でいえば充分に金を持っているということなのだと見えてくると、ちょっと内容に怪訝なものも感じだす。

□そして鎌倉の古書店で十数万という高額の文学全集を買い、小説を書き始める。この頃がホテル暮らしをして半年ほど経ったときというのだから、知人に借金をしたりというくだりも書いてはあるが、なぎさホテルで暮らし、一般的な庶民よりは豪勢で羽振りの良い暮らしをしていたと想像される。それを「金がなかった、ホテル代も滞っていた。いつも借金に追われていた」云々と書き連ねているのは、明らかに虚偽であり、本人的に貧乏と思っていたのかも知れないが、通常感覚でいけばまるで貧乏というのとは違う生活をしていたのだ。

□「ホテルの滞在も二年目に入り、何かで収入を得ないことには暮らしていけないので、上京しては知人を訪ね、何でもいいから仕事を引き受けるようにした」「それでも金はいつでも不足し、小説に時間を費やすことなどできなかった」とあるが、そのへんがこの本を読んでいてかなり鼻に付くのである。この人物は節制してやっていれば金に不足などしない、手持ちの金持あった、きっとそれでは不足するほど使っていたのだ。

□そんな中で思いもかけず提案された作詞の仕事、それを引き受けたら思いもかけず数年のうちにヒット曲を数曲書く。この辺はやはり才能としか言えまい。

□「自分の小説の肌合いは、どうもあちら(純文学系と称される世界)とは違うらしい。漠然と、そんな思いを抱いたのだが、今にして思えば、このことは私にとって幸運であった。小説は、書くべき(むかうべき)対象の本質を見つめ、執筆をはじめればそこに純文学も大衆文学もなく、領域を決めること自体が陳腐である」と書いている。要するに伊集院静はなぎさホテル支配人のヒモであったわけであり、支配人がパトロンであったのだ。芸術には文学にはパトロンが必要である。それは古来から言われてきたこと。完全なる暮らしの余裕と、日々の暮らしに追われない心配しないことで、日常生活から離れた思想、思考が生まれる。その楽な暮らしを金がない苦しかったとしているところがこの小説の嘘が見えるところであり、伊集院静に対する疑念が湧くところでもある。

□「自分の小説を一から新生していくことができない。作品の基軸に、どこかに真実から生じているものがなくては書き進めることができない。そのことは己の創作力の欠落を証明していることかもしれないが、私には作家の頭のなかで考えることより、世間で日々起こっていることの方が遙かに人間的だと思えるからなのだろう。このことはおのずから自分の小説の限界とも関係するだろうし、新しい野や海へ出てから後、初めて自分は独り立ちした作家になるのかもしれない、とも思っている」

しかしこの頃は、そうまでして小説の海へ漕ぎ出す必要があるかどうかに疑問を抱いていることも確かだ。
「ただ私は一冊の、一行の言葉が人間に何かを与え、時によってはその人を救済することがあると信じている。一見世の中に直接的に必要とは思えない分野にも、人間にとって欠かせないものが存在するから、こうして長く人類は、それを手離さないと思っている」

こういう所を抽出するとなかなかいいのだが・・・。

「船の売買の話は支配人が上手くとりなしてくれて買わずに済んだ。第一にそんな金はどこにもなかった」

と、ここでまた嘘が見ててきて空々しくなる。

「小説はいろんなものがあって当然だ、と今ならわかるし、その人にしかないものを書くことの大切さもわかってきているが、オリジナリティーは、やはり生まれついてのものか、ある時突然変異の種のように、その人に宿すもので、当人の意識でなるものではない気がする。さらに言えば、オリジナリティーは文章(文体)に現れるものだ。小説の主題について、いろいろ語られるとき(当人とは関わりのない処で)があるが、それもすべて文章にあらわれている。文章を確立させるのは論理的なものではなく、やはり生理的なものではなかろうか?だから小説の文章歯、思想家、哲学者、科学者などが箋る文章と、そこが決定的に違うのだろう。その上厄介なことに、文章が或る域に入ることはあっても、到達することはないのだ」

いいことを書いている。

「ホテル暮らしの3,4年目に中古車を購入し、そのうち車は二台になった。一台が60年代のベンツでもう一台がランチアだった。どちらも中古車だ。三十代半ばのあるとき車の運転を止めてしまった」

20代後半から30代でベンツやランチァに乗っていた。・・・とここでまた金が無い貧乏だと重ね重ね書いているところの嘘が剥がれる。どう考えても金がないわけがないではないか。

『機関車先生』生家に送り返した荷物の中に紐で縛った原稿用紙が入っていてそれを母親がしっかり取っておいた。直木賞を受賞した直後の故郷での祝賀会に同行した編集者が、母親との四方山話のなかでその話を聞き、見せて欲しいと頼んだものが出版され、柴田錬三郎賞を受賞する。これは20歳代の後半に撮影の仕事でロスに行った折、往復の飛行機の中で三百枚近くを書いた』という。これは本当にすごい気力だ。

「作品の出来、不出来とは関係なく、それがその時の自分の度量であり、恥は恥で残しておいたことが作品として出版される結果となった」と。

「吉行淳之介が嫌悪するもののひとつは、酒場やそれに似た場所で、いずれ小説をかくと酔い戯れに口にして、いっこうに小説を仕上げない輩だという。吉行氏は小説を仕上げることが、己へのみじめさ、他社への自己の露見を含めて、いかに切ないものか、それを荒々しい口調で語っていたのだ」という。

「作品を他者に委ねると言う行為には、そこに恥を晒すということが自ずとでる。さらに言えば傲慢なものがどこかになければ、とてもじゃないが文学というあやふやなものに確信を持ったり、ましてや己の作品なぞに平気でいられるはずはない」

□玉石混淆という言葉もあるが、この小説は玉嘘混淆と言っていいようなものだ。伊集院静は嫌いではないのだが、こういう馬鹿な嘘を平気であたりまえのことのように書いているところを読むと、人間の浅さや嘘っぽさをもろに感じてしまう。まあ、小説家というのは嘘つきでなければならないと言われるのだが、おいおいと言いたくなるような嘘をついていてはダメだ。

□P.83 「私は東京で様々な人たちを見てきた。善い人も大勢いたが、不愉快になる人たちもいた。中でも私が嫌悪したのは、自分たちが上層階級に生きていると思っている人たちで、例えば旧華族と称された人種だった。華族と言ってもほとんどは明治維新以降、薩長出身者からなる政府に取り入った政商や世渡りの上手かった連中である。それに政府の中枢にいた者ももともと郷士や小作農の倅が大半で、維新の基礎を作った吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛といった人物たちは皆死んでいた」
「私が生まれ育った長州(山口県)などは、明治以降、多くの大臣を輩出しているが、よくよく彼等の行った誠司を調べてみると碌な政治家は出ておらず、それはつい最近の岸、佐藤の兄弟総理まで続いていた。彼等政治家を尊敬する長州人を見ていて、虫酸が走った。上京してからも、同じように華族を気取る人種に逢うことがあった。見ていて品性の欠けらもない連中で、どこにもこの手の輩はいるのだと思った」

この部分は自分の考えに近いし、共感する。

□面白くてワクワクし読み終えたが、それは逗子のなぎさホテルでの浮世離れした、通常では考えられないような生活が浮かび上がってきたからだ。
作者は金がない、貧乏だ困窮していたという様子を繰り返し書いているが、開高健が学校に弁当を持って行くこともできず、水道水を腹に流し込んで空腹をしのいでいたという生活。ブタのしっぽを齧り、食卓に乗ったじゃがいもを家族でじっと見つめていた生活。ふらふらになりながらアルバイトを繰り返していた生活。そういう本当の困窮、貧乏の中で食うものも食えず、働ける口があれば昼夜を問わず働き、その中で本を読みあさり文学を作り上げて行った苦しさや貧しさというものが本当に金のない貧しさや苦しさであり、伊集院静の金のなさ、困窮はいってみればまやかしであり、貧しさや金のなさの外形だけを自分に当てはめていただけのことで、本当の貧しさや金のなさとは違うであろう。それはこの本を読めばわかる。

□面白くわくわくして読んだが、伊集院静の嘘とその人間の虚の部分がはっきり見えたようでその部分はとてもあさましく思えたのも事実だ。ただし、ひょっとして伊集院静という人はそれが嘘だとも思わず「いえ、本当に貧乏でした」という気持ちで書いているのかもしれない。人によって金がない、貧乏、苦しいの物差し、尺度は違うだろうから。伊集院静の物差しは一般的な尺度とは違っているのかもしれない。そういう意味では幸福な人であり、そういったところが魅力になっているのかもしれないが。

1978冬ー1984

28歳ー34歳

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2011年9月24日 (土)

NHK-BSプレミアム「釣って、食べて、生きた!作家 開高健の世界」

●NHK-BSプレミアムで9月23、24日に二夜連続で開高さんの番組が放送された。なんだか最近ちょろちょろっと開高健を取り上げた番組が放送されている。

●ちょっと前はNHKの「サラメシ」で開高さんとフィッシングハウス村杉の山菜チャーハンが取り上げられていた。山菜チャーハンよりも村杉の佐藤さんがニコニコとした顔で胡座をかきながら「鬼がきたーっていうんだよ」と出版社の担当者がやってきたときの開高さんの様子を話している姿がよかった。びっくりするくらい元気でイキイキとした親爺さんの笑顔を見たら、こっちが嬉しくなって笑ってしまうほどだった。「いいねぇ、村杉の親爺さん」って思った。

●先日はBSジャパン「小林麻耶の本に会いたい」に開高ファンである角田光代が出演していて、そのインタビュー場所が、なんと新潮社クラブ。開高さんが泊まり込んで執筆していたその場所。一体どんなところなのかなと前々から思っていたので実際の映像を見ることが出来てとても感激。外観は普通の一軒家という感じだけれど、中はなるほど沢山の作家を缶詰めにして執筆させる場所といだけに、作り立派さ、威厳が漂っていた。この新潮社クラブには部屋の掃除などをしているおばさんがいて、実は作家の目を盗んで原稿用紙の枚数を数えて編集者に報告をしていたということだが、いまはその名物おばさんも居ないのだろうなぁ。ここに泊まると開高さんの亡霊が出る、会ってみたいと角田光代が言っていたが、開高さんの亡霊なら自分も会って話をしてみたいな。なんだか2009年の開高さん没後20年のときよりも番組が多い気がする。

●そして今回の「釣って、食べて、生きた!作家 開高健の世界」の放送。正直なところ、開高さんと釣りを絡めた番組や雑誌の特集記事などはもう毎回同じことばかりを繰り返しており、完全にマンネリ化、どれもこれも書いていることも、扱っていることも同じことばかりで新鮮味がなくなっていた。だが、今回のNHK-BSの番組は扱っている内容、切り口が新しく、お!これは!と嬉しくなる内容だった。

●辻料理学校の谷口さんが、開高さんの会話をカセットテープに沢山録音していたというのも初耳で物凄く驚いたし、最後の釣行として撮影されていたバスフィッシングも今迄放送されることなく、沢山のテープが残っていた。たぶんまだまだ開高さんに関わる未公開の映像や文章、写真などは沢山あるのだろう。そういえばセシリア・瀬川・シーグルさん(「夏の闇」翻訳者 元ペンシルベニア大教授)の講演会のときに、坂本忠雄さんが(開高健記念会会長、「夏の闇」 新潮社担当編集者)「瀬川さんと開高さんの往復書簡がもう何百通もあった。貴重な資料だ」なんてことを言っていた。開高さんが亡くなって20年以上、もう新しい作品が出版されることはない。

讀売広告社 貝原武氏・・・岩切靖さんじゃなかった。

亜細亜大学 鯉淵信一氏

実妹 野口順子さん

菊池治男さん・・・今でも若い

林水泳教室の林さんと、奥さん

ボブ・ジョーンズと奥さんベラ

みんなの顔見ていればわかるなぁ。みんな開高さんのことが好きだったんだなぁって。高橋昇は開高さんを究極の人たらしだなんて言っていたが、本当に絡んだ人をたらし込んでしまって、好きにさせてしまう人だったんだろう奈ぁ。

開高さんのオレンジのダイバーウォッチ・・・

住民が発達していて民度が高くて、魚を保護する、大事にする、自然を守るという精神のある自然の豊かな先進国ほどプリミティブな自然が残されている。それはプリミティブとは言えない、人間が取らないとか、放してやるとか保護するとか、孵化場を設けるとか、色々努力したあげくのそれですから。いわゆる第一次プリミティブというよりは第二次プリミティブみたいなもんだけれども、インドネシアとかタイランドとかアマゾン、これらの国では第一次プリミティブが滅びたらとたんにダメになってしまう。第二次植林してるまもなく日光に焼けて木がただれてしまう。一種の倒錯現象ですわ。文明国であるほど自然があるということ。

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2011年8月 1日 (月)

『大震災 欲と仁義』荻野アンナ(2)引っ掛かった部分を抜粋。

○死者に対する視点は、盛り込みきれなかった。死者への悼みを昇華する余裕もない時期がこの本を流れる時間となった。

○避難所は日本の縮図だ。

○動かない善人よりは、動く悪人。

○善意で手を伸ばし、欲でつかむ。

○たいていの人間は善人と悪人の中間で、状況によりどちらにも転がる。

○「天地に仁なし」(老子)・・「天罰」発言も人間中心の発想・・・なるほど。

○「人に仁あり」・・・想定外の天に遭遇して初めて人間の力が発揮される。それまでの生き方が、鮮やかな輪郭をとって形になる。

最初は仁で動いていたはずが、仁が欲に入れ代わる危うさ。

○「東北の人はすごい」大惨事のど真ん中で、200人が整然と動く。(大阪人には驚き)

○欠乏のただ中で、物資が運ばれてくると「要らない」と言ってしまう。ナイーブで真面目。
*「ここは大丈夫だから他のもっと大変な所に持っていけ」そういう話は沢山聞いた。

○「私はガキ(餓鬼)を初めて見ました」極限状態で心が破裂した状態を、他のどんな言葉で補えるだろう。

○泣く人には泣けるだけのエネルギーが残されている。そのエネルギーすらゼロになったとき、人は燃える瞳の操り人形になる。瓦礫のなかの燃える瞳は地獄絵図だ。「あの瞳は映像では伝わらない」

○パニックになってもおかしくない状況で、数人の女性や子どもを除いては、大きな声をだすこともなく、静かに事態の推移を見守っていた。人を押しのけたり、水や食べ物を「われ先に」と奪ったりするようなこともなく、わずかな手持ちの食べ物を周囲の人に分け与える人もいた。(宮崎日日新聞3月18日)

○津波には破壊以外の意志はない。その巨大な掌に押し潰されたらひとたまりもない。しかし、伸ばした指の股に当たる地域は、辛うじて無事だった。津波は町を食っては反吐を吐いた。津波はチューインガムが好きだ。自動車をひと噛みでポイする。わが物顔で日常と馴れ合っている。

○自衛隊のお手伝いが戦争のシミュレーションになる。被災地の瓦礫を片づけて道を造る。基地やヘリポート造成の前に道路を造る。それが訓練になる。長野オリンピックでエアリアルの台を造ったのも雪中の戦闘を想定してのもの。

戦争の技術が平和利用されるのはありがたい。平和利用の先に戦争があってはたまらない。

○廃虚に取り残されていた鳥居。沖合の小島に倒壊して岩に寄りかかっていた鳥居。鳥居は神域を表す。津波の前では神々も無力なのか。日本人の根っこがゆらいだ。
○避難所にもそれなりの体制ができあがってくる。それと同時に日本の日常であるトップダウンが幅を利かせ始める。

避難所は既に組織化されており、支援物資をもってきても、担当者が「会議にかける」という手順を踏む。その会議が2時間後

○店の裏口の側溝に一人浮いていた。警察に連絡したが混乱の中で話が通じない。通りかかった自衛隊車両に声を掛ける「無理だ。もう3体積んでいる」その次の自衛隊がようやく運んでくれた。

○金庫を見つけた。あっけなく開いた。この景色の中で金庫をこじ開ける欲に圧倒された。震災後信用金庫のビルから4千万が奪われた。まだ行方不明者がたくさんいるこの場所で、信用金庫も個人の金庫も空になっていた。「人間には泥棒っ気と大工っ気はみんなある」。一方で拾った財布を届ける人は多い。「この財布の持ち主が無事だといいね」そう言い残して名も告げず去っていく。

*財布には生きていた人の胸の温もりが宿っているから盗めない。金庫は誰のものかわからないから盗んでも心が痛まない。ということだろう。

○津波は移動する壁。水のブルドーザーが、ある地点で踵を返す。線引きに根拠はない。全壊か無傷か、生か死か。もてあそばれる残酷さ。

○避難所生活が長期化すると「下界」とは比べものにならない楽な暮らしという見方も出来る。町ではカップヌードル、おにぎり一個のために2,3時間並んで自費で買う。

○避難所は食料がタダで下着もあって、医者がいる。新聞もテレビもある。「ああゆう生活を一ヶ月もしていたら良くない。人間がダメになる」若い人は食事が終わると、次の食事が運ばれてくるまで布団にくるまって身動きしない。労働経験の乏しい若者がいったん「ラクを覚える」と抜け出すのは厳しい。

○避難所の日常で、食以外の楽しみはない。有名人の来訪に人が群がるのも、炊き出しが付いてくるからだ。

○物資をもらいにくるよう声を掛けても、家があるだけ申し訳ないという気持ちが彼らの足を重くする。避難所と彼らの間をつなぐ余裕が行政には欠けている。

行政は細かい動きの出来ない像のようなもの。フクロウの知恵を持ち、ピューマの俊足で動く個人が、像の不足を補っている。

○食事の準備で女性たちは当然のように家事をこなした。動く人の数がたりない。「いざとなると男って使えない」

避難所のリーダーはすべて「自然の流れ」で決まる。

○「流されちゃってさ」その手の会話が当たり前のように交わされている。

ショックで食べられないのは男。あまりのことに食べるしかないというのが女。ある程度一般化できる法則。

「高台に逃げる時間はあったけど、安心感の方が強かった」

あらゆる破壊の形象の前にどう「ふんばれ」というのだ。どう「撤去しろ」というのだ。

(非常事態の中で)温厚な頭の低い人はモノの役に立たない。

○支援物資を送る機運が市民から出ても、被災地からの要請がない以上、市は動けない。とにべもない。

○センター内は物資の山でも、外の町は窮乏していた。「家があるだけで避難民扱いされなくて、モノもらえへん」

○東北ボランティアの原点「ゲリラ」・・・今まで通りの枠にはまったやり方よりは脇にはみ出てやる方法もある。

○小学校でたこ焼きボランティアを申し出ると調理施設をかしてくれない。電話で聞くとやめろと言われるからゲリラでやった。良い結果が出ると行政の手柄にされる

○自衛隊は自分たちが調理したものを、食べられない。米の一粒まで被災者の為という「規則」。隊員にはレトルトが配られている。

○避難所の被災者用電話を無料をいいことに近所の住人が毎日通いで使っていた。その現場を被災者が見つけて怒鳴り合いになる。

○避難所の場合、ありがたくない人やモノには「フィルター」がかかる

システムとしての「公」は人体に例えるなら関節が硬い。前例、規則、慣習のギブスがはまっている。日常生活に支障はないが、非常時の瞬発力は望めない。

○巨大な「亀」に見える「公」も個人を見れば、良心的なのだろう。なぜ良心的な「私」の集合体が巨大な亀になるのか。

○物資庫で対応した人物は、靴、長靴、ランドセルなどを受け取ったあと、ブルーシートは「あるから、いらねぇ」と言った。

初期の混乱の次に物資の「溜め込み」と「だぶつき」が始まった。一部の被災者が、自分用や家族用に余計にもらおうとするのが「溜め込み」。首都圏のスーパーから水や卵が消えたのと同じ心理。同時に物資は一部が欠落し、一部で余剰がでた。これが「だぶつき」。

○溜め込み⇒持ち出しを厳しくしよう。⇒物資庫の出入り禁止。だぶつき⇒物資をどんどん出そう。⇒一部の人がどんどん出した。こうして避難所の物資は不透明になった。

○商工会議所の人が全国に支援を呼び掛け、届いた物資は別の避難所へ送る。「みんなが物資を必要としている。俺たちが機動力を発揮する。大活躍だが、届いた物資が避難所をスルーして別の避難所へ? この機動力は本来行政の領域ではないか?

行政、自治体は支援物資の「該当品目以外は受け取ってくれない」「杓子定規な対応」。I万本の野菜ジュースも受け取り拒否。商工会議所の人は即決で受け入れ。別の避難所へ送ると。避難所の分母に対して物資が多すぎる。受け入れない行政と、どこかでねじれが生じている。

○「力の無い人が、力のある人をひがんで悪いウワサを流す」「人脈があると、あいつ一人が偉そうに、と陰口を叩かれる」

○避難所へ物資を届けるのも「金もらってやってる」「自分で食べてる」などと言われる。

○商工会議所の人脈で大量の物資が届く。トラックがしきりに出入りして他の避難所へも配付する。当事者に近い人は「彼のおかげで豊富な物資に、感謝している」と、近くない人は「何をやっているのか分からない」感じを受ける。

物資庫の関係者には「物を管理して渡すのが楽しくてたまらない」人もいる。「もしかするとこの避難所生活がずっと続けばいいと思っているのかもしれない」

避難所から仮設住宅へ移るどさくさに紛れて、工事の口利き料を取るようなケースが一部で横行している。

一歩間違えれば避難所は心と物の利権のるつぼになりかねない

○そもそも県立高校は指定された避難所じゃなかった。校長は県に許可を取るより先に被災者を受け入れた。「だって、着の身着のままで逃げてくるんですよ」

「(震災してから校庭で)火が焚けたのは、高校が避難所じゃなかったからなんですよ」「他の(市立)小、中の避難所はどこも火を焚かなかった」

○県立高校と市立の小・中学校では設置者が異なる。正規の避難所は市立の方が一般的。「ここは県の土地だからダメですよ、なんてそんなバカなことは言えません。市民は県民でもあるし、生徒の親御さんであったり、学校にとって大事な人たち」「来る人は、どんどんお入れした」

焚き火に関しては風の強さや方角によっては火事の恐れもある。タブーの部分があったかもしれないが、外で避難している方々に対して、火を焚くなとは言えません。極めて自然発生的に火を囲んだんです。すべて自然の流れでした」

○「被災者が高校に集まりはじめた。夜になって車がどんどん流れ込んできた。グラウンドは満杯になった」「災害は最初の3日間が肝心だ。流れで最初の3日間は引き受けた。4日目からは市に任せた。辛いのは最初の3日間だ

○津波が引いても胸元まで水が残っていた。消防士がボートで捜索中、コンビニ荒らしと遭遇した。若者が数人。中のひとりが悪びれる様子もなく、盗ったタバコを差し出した。「消防士さん、吸いますか」

「他人より動くこと」そうすれば他人も動いてくれる

○市から来る物資はパンとおにぎりのみ。それで一日をしのぐ避難所もある。自衛隊が作るのは朝と晩のみ。

○自宅避難民もそうだが、最近では仮設避難民も多い。自立した以上、避難所での食料受け取りを自粛するよう市の指令が出ている。国・市からの一時金も出ていない。(商工会議所OBの人は)「そういうケースはわれわれがカバーしています」と言う。夕食時に食料をトラックに積んで配付して回る。

「物資を扱っていると個人的に物を持っていってしまう人がいる。それで何人もの人をここ(物資庫)から切った」「あの人も自分の欲しい物を倉庫の中にまとめていた。触るなと書いて私物化していた」「本当に真面目な人以外、物資庫には入れない」

○「物資が入らないんじゃなくて、入っているのに渡らないから問題がある」「行政ができないからやってるんじゃなくて、行政ができるように教えてやっている」

大変な苦労の後に後ろ指をさされる。それでも誰かがやらねば人助けはできない。

○「支援物資には賞味期限の迫ったものが多い。切れたら無駄になるものを、その前に車でよそに配る」

阪神大震災の際は一ヶ月で出た国の一時金が、今回は二ヶ月以上経っても出ていない。

「記憶は嘘を言う」

○「○○市公営住宅、中学校住宅、入居者の皆様  差出人:○○市社会福祉事務所《避難所での食料党の受け取りについて》  皆様には仮設住宅での生活にも慣れてきたころかと思います。さて、仮設住宅へ入居された皆様には避難所での食糧受け取りや入浴施設の利用は慎むよう連絡いたします」実際に配られたというビラ。

○社会福祉事務所「ビラは確かに配った。自粛は禁止ではない」(毎日箸を持って避難所に食べに来る仮設の人もいる)

○つまり、少し余裕のある仮設の人は避難所で毎日食べるのはよそう。まるで余裕のない仮設の人は堂々と避難所で食べよう。

○だれ一人全貌を把握できないし、事態を一本化して語れない。(それはそうであろう)

スローモーションの行政が動き出すまで待っていられない。行政は組織に属する人が自分で判断することを許されていないため、臨機応変さがない。上に聞く、上の上に聞く。

○避難所に肉や野菜を届けようとしたら、その量では平等に分けられないからと断られる。

自主的に動いたのは、看護師や介護士などのボランティア団体。

支援物資を取りに来た被災者に「あなたを信用しないわけではないけれど、こちらで公平に配るので」と物資を渡さない。

「あなたは目の前に埋まっている人を助けないのか。全部見つけてからいちにのさんで掘り起こすのか」

震災時に日本の公が機能しないのは、日本の構造的な問題。日本の法律では、役人はたとえ間違いを犯しても個人で責任は問われない。だから組織の言うままに動くことで責任回避をする癖がついてしまっている。

○これはシステムの問題。自分の答えを出すことを学ばない。聞き分けのいい子を増産する教育の問題。

いい子であることによって、自分の責任から逃げている。国が言うことだからそれでよいのだと、自分の頭で判断しない。

日本はのんびりした土壌で災害時にもパニックにならなかったという側面もあるが、同時に”市民としての誇り”を失っている。行政にいいように扱われても、経済さえ潤っていれば何でもイイ、という”国民性”になってしまった。

21世紀の日本人はシステムの中で判断停止に陥った人たち。

ボランティア体験がマイナスになることもある。自分よりも弱い人たちの面倒を見た結果が二つに別れる。「その後の自分の励みになる」「現状に居心地の良さを感じて停滞してしまう」被災の現場に飛び込んで行くことによって、一時的な判断停止を自分に許してしまう。「ボランティア依存症」「モラトリアム」

これを暴露本と捉えるのは書かれたことが都合の悪い人、団体、暴露本というまで堕ちてはいない。

荻野アンナに過去の原発擁護、推進的発言が過去になければもっと素直に読めたと思うのだけれど、それでも言葉に力はある。今の日本を被災地から抉っている。

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2011年7月30日 (土)

『大震災 欲と仁義』荻野アンナ (1)

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■311東日本大震災に関する写真集、本は沢山出版されているけれど、その多くが悲しみや涙、美談、勇談を取り上げ、敢えて言えばそれを強調し、涙を誘いだすようなものが目立つ。それが悪いことだとは言わねども、何か涙で売り上げをとろうとするような、口先だけの人間讃歌をしているような違和感も感じていた。

●荻野アンナが実際に被災地の避難所で活動し、そこで見て聞いて感じたことを書いたというこの本は、そのタイトルからして書店に並ぶその他の震災関連本とは発するモノが違っていた。

●震災以降の日本は、マスコミも世論も「皆で協力して、一つになってこの災害を乗り越えていかなきゃならないんだ、皆が手を取りあわなきゃらなないんだ」と一色単になって連呼している。それは世の中全部の共通意見のように扱われて世論になった。それは良いことなのだけれど、”キレイゴト”の裏にはキレイじゃないことも必ずある。実際には多くの人がそういうものがあると感じているのに、震災以降の日本の雰囲気は、汚いものに蓋をして美談ばかりで全てを塗り尽くす、そんな感じだった。そういう美談だけじゃないよと否定的な事を言おうものなら「皆が頑張っているのに今そういうことを言うな、今この状況でそんなこと喋るな、表に出すな」という見えない大衆圧力が覆いかぶさってきて、言葉を封じる雰囲気があった。

●そんな世の中の雰囲気の中で、震災本に”欲と仁義”というサブタイトルを付け、キレイゴト、美談だけじゃない本当の被災地の状況を書いたこの本は異色であり、ある意味、日本に漂う空気に対するアンチテーゼにも見える。文人であるならば一方だけに偏った意見に同調するのではなく、ありのまま全てを伝え、判断は読む物に任せるべきだ。その意味で荻野アンナのこの本の在り方はとても評価できるし、もっと評価されるべき、そして多くの人がこういう本をもっと読むべき。

●美談で覆い尽くしても、その下にあるどろどろとした暗部が消えるわけではない。表に出して日の光を当てなければ暗闇は暗闇のままだ。そこに蔓延る人の暗部もそこで生き続ける。だから、見たくなくても、嫌でも、暗部には光を当て、曇りの無い目で見なければいけないのだ。

●最初は震災の中で少しばかりふざけ過ぎているのではないかと思うような内容に眉をひそめたが、段々と避難所で暮らす人たちとの関わりに冗談でやっているのではない真剣さが漂い出す。

●ある意味暴露本にも近いけれど、そういう思考の低さはない。最初はさほど重たくも考えておらず、被災地でお手伝い程度に思っていたのが、被災地の状況と避難所の状態を知るにつれて段々とそんな気持ちが吹っ飛んでいった感じだ。そして一つの避難所の暗部が見えてくる。

●この本に書かれた今回の震災の象徴的な市、その市の行政としての対応、支援物資のこと、自衛隊のこと、仮設住宅のこと、食糧配給のこと、この市にとっては表に出して欲しくないようなことばかりだろう。でもこういうことが実際にはあちこちの被災地で起こっていたのだろう。こういう行政のどうしょうもなさ、人間のどうしょうもなさはあちこちの避難所で起こっていた、今でも起こっているのだろう。

●全部をそのまま鵜呑みする気など無いが、この本に書かれていることには単に震災ということにとどまらず、今後の人生にも役に立ちそうな言葉があちこちにたくさんあった。いつか振り返って読みかえしたいと思って抜き出したら凄い量になってしまって、ほとんどこの本の抜粋になってしまったが(2)に記録しておく。

●2011年3月11日からもう五ヶ月、まだ五ヶ月。実際の被災地の状況は五ヶ月前とどれだけ変わっているのだろう。瓦礫の撤去や仮設住宅はできたとしても、根本的な部分はまだ手付かずの状態ではないだろうか。

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2011年7月 9日 (土)

東北六魂祭 CM RAKE 誓い

●大震災と津波で沿岸部を壊滅的なまでに破壊された東北地方。その仙台で行われる今年の七夕祭りは、東北六大祭りを仙台に呼んで「東北六魂祭」として催されるという。

●TVでCMを観た。なぜかじわりと涙が溢れてきた。音楽もいい、そして映像もいい。CMに出ている人たちの目がどれも極めて真剣で真摯だ。東北の祭りを今自分たちが担っているという自負と気迫が顔に滲み出している。金儲けや利益誘導に染め尽くされたような日本だけど、日本の夏祭り、東北の夏祭りを演じる人たちの顔にはそんな汚れは微塵も見当たらない。今しかない今と、大切なもの、伝統を演じ、継承する人間の心の本当の素晴らしさが祭りの中でいっときかも知れないけど蘇ってくるのだ、それが人に宿るのだ。

●こんな大規模な祭りを企画するのだから、大手代理店や、企業の損得勘定、利益算段もそれなりに中では蠢いているだろう。仙台七夕自体、むかし自分が見に行ったときは、まるで街自体がバーゲンセール会場になっているかのようで、通りの両側は出店で埋め尽くされ、店は人の呼びこみを大声で続けている様子ばかりで、七夕飾りとお祭りになにか伝統的な奥ゆかしさとか、情緒は感じられなかった。これは平塚の七夕も同じだ。だから、もしこの六魂祭を観に行ったらきっと「ああ、やっぱりか」とがっかりしてしまうかもしれない、結局は人を集めて大セールしているだけだと思ってしまう、多分そうだろう。

●震災で被災した人の多くは4ヶ月経った今でも、こんなお祭りになんて行ける状況にない。職もなく、収入も絶たれ仮設住宅にも入れない人だって沢山いる状況で、こんなお祭りをする意味があるのか? そんなふうにも思ってしまう。

●きっと仙台に行ったら、毎日のようにTVで見る全然瓦礫の撤収も進まない被災地の状況と、震災前となんら変わらず、震災なんて素知らぬ顔でいる仙台の街と、お祭り騒ぎをする人々の姿に、大きなギャップとある種の憤りすら感じてしまうかもしれない。いや愕然と肩を落としこの日本に絶望してしまうかもしれない。

●震災と津波で被災して、今でも暑さに耐え、苦しみ、避難所や仮説住宅で生活を建て直そうとしている人、この先の将来がどうなるかも分からず不安を抱えて日々を送る人、親や子供、妻や夫を津波で流された人、そんな人たちがこんな祭りに行けるか、こんな祭りを楽しめるか、なんの被災もせず、のうのうと仙台の街で祭りで騒ぎ、出店て買い物をし、楽しんでいる人たち、そこからほんの十分車で走った場所には未だに瓦礫の山で、まだ見つからない人もいて、たくさんの悲しみと苦しみが渦巻いているのに、わずか十分車で走った距離しか離れていないのに、仙台の街はお祭りで大騒ぎしている。そんな状況を素直に受け入れられるか、そんな状況を見て「いったいなんなんだこれは」という憤りがわき上がってこないはずがない。

●今、この夏、仙台でお祭りをすることに疑問を感じる。そんなことに掛ける力があるのなら、直ぐそばの海辺で続いている苦しみに手を伸ばすべきなのではないか? この祭りは結局、震災で被災しなかった、何でもない全然大丈夫な人たちの為のものにしかならないのではないか、心を一つにとか、東北は負けないなんて美辞を冠にしているけれど、苦しんでいる人をよそ目にして自分たちは楽しむ為に催されたものではないか。東北の魂が一つになったなんて偽善じゃないか。

●それでも、それでも、夏はやっぱり祭りなのだ。夏祭りのない夏なんてありえない。偽善であっても何もしない奴よりはいい、たとえそれが偽善であっても、ほんの少しだけでもプラスに働くなら、何もしないよりはいい。数える位の少ない人だったとしても、この祭りで元気づけられる人がいるのなら、それだけでもいいのかもしれない。

●願わくば、このお祭りに出かけた人の一人でも多くが、お祭りを楽しむだけではなく、本当に今、被災して苦しんでいる人が直ぐそばにいるのだということに、心を傾けてくれたなら思う。

●余りにもというくらい上手に作られたこのCMと、映像にマッチした音楽を聞いていると、なんだか涙が出てくる。でも、疑問も湧いてくる。

●本当に東北の心が一つになったなら、そんな素晴らしいことはないのだけれど。

・東北六魂祭

RAKE「誓い」

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2011年6月 5日 (日)

雁屋哲の自民党批判のブログ

3月12日にアップされた「東北地方を中心とする大震災で罹災された方々にお見舞い申し上げます」
というタイトルの記事の一部。

『しかし、はっきりしておきたい。地震は天災である。だが、原発事故は人災である。過去の自民党政権の遺産である。自民党の現議員たち・前議員たち・元議員たち、総出で福島冷却水問題に当たれ。本当に国を思って原発を建てたのなら、今こそ自民党人柱隊を作って福島原発に突入せよ。今の民主党政府の取り組み方を批判する資格はお前たちにはない。分かっているのか、この、腐れ自民党どもが!貴様等の悪政が今の悲劇を招いているんだ。』

全文
東北地方を中心とする大地震でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈り申し上げます。
また、被害に遭われた方々に、心からのお見舞いを申し上げると同時に、どうか心を強く持って、頑張って下さるようお願い致します。

昨日来、NHKのテレビにしがみついています。
私が人生で見た、最悪の災害です。
仙台は私の愛する町です。
私の敬愛する大先輩のご一家が住んでおられます。

しかし、どうしても電話が繋がらない。
心配でたまりません。
また気仙沼には、世界一の魚焼きの名人「福よし」の村上さんがおられる。
「福よし」は港に近かったから被害を受けられたのではないか。
心配でたまらない。
唐桑町の世界一の牡蛎の養殖場、畠山水産の畠山重篤氏はどうしておられるだろうか。

仙台だけではない、青森県にも、岩手県にも親しい方が大勢いる。
しかし、電話が全く通じない。
心配で心配でたまらない。
さらに心配なのは福島原発である。

私は地震の知らせを聞いた時にすぐに原発は大丈夫かと、そっちの方に頭が行った。
案の定だ。
福島第一原発の冷却水が止まって、原子炉の冷却水が回らなくなり、炉のが高くなり、破裂寸前だという。
NHKに出て来た東大教授は、如何にも何でもない軽微な事故のように言うが、これが軽微だったら重篤の事故なんて物はない。
冷却水が止まったら原子炉がどうなるのか、原力工学のイロハを知っていれば分かることだ。
中央制御室内の放射能の値が既に通常の1000倍になっていると言う。
その大学教授は、防護服を着て制御の作業に当たれば何でもないといった。

おっさん、気は確かか。防御服を着て制御するなんて、ジョーク以外の何物でもないだろう。
中央制御室は原子炉から離れたところにある。そこの室内の放射能の値が1000倍になったと言うことは、既に、原発敷地内全てが1000倍の放射能に汚染されているということだろう。
放射能は、敷地内に留まるような行儀の良い奴ではない。
とっくに、周辺に拡大しているだろう。
この先、冷却装置が回復せず、原子炉を冷却することが出来なくなったら、どうなるのか。

1号機は、沸騰水型原子炉である。
沸騰水型原子炉とは、炉心の周りに水を流して、その水を炉の熱で沸騰させて蒸気にしてタービンを回して発電する、と言う構造になっている。
その炉心の周りに流すのが冷却水だが、その冷却水が補給されなくなったら、原子炉での核分裂反応は止まるが、原子炉の運転には関係なく、燃料棒の中の様々な不安定な原子核を持つ物質は崩壊してより安定な元素になって行き続けている。
崩壊する時に熱も放射線も出す。
その時出る熱を崩壊熱と言うが、崩壊熱は、原子炉を運転していようと止めていようと、そこに不安定な核を持つ物質がある限り発生する。
で、冷却水が無くなってしまうと、崩壊熱の逃げ場が無くなり、燃料棒の集合体は短時間の内に数千度にまで達し、溶けて落ちる。
これが、あの恐るべき炉心が溶けてしまう、メルト・ダウンなのだ。
この、崩壊熱で溶けた燃料が水に触れると水蒸気爆発を起こす。
これが、原子炉格納容器を爆発させたら、チェルノブィリ以上の事故になる。

今政府は、半径10キロ以内の住民の避難を勧告しているが、10キロどころで収まる訳がない。
福島原発の数10キロ四方の土地はこれから、数千年、数万年人が近寄れない土地になるだろう。
周辺の魚も全部食べられなくなる。

さらに、福島第二原発でも、冷却水が止まってしまったという。
福島第一原発に続いて、非常事態遷化が出されたのである。
もう、われわれは、幸運を祈るしかない。
なんとか、冷却水が間に合うように、神を信じることの出来る人は神に祈って下さい。
私は無信仰だから、しっかり事態を見届けるしかない。

 しかし、はっきりしておきたい。
 地震は天災である。
 だが、原発事故は人災である。
 過去の自民党政権の遺産である。
 自民党の現議員たち・前議員たち・元議員たち、総出で福島冷却水問題に当たれ。
 本当に国を思って原発を建てたのなら、今こそ自民党人柱隊を作って福島原発に突入せよ。
 今の民主党政府の取り組み方を批判する資格はお前たちにはない。
 分かっているのか、この、腐れ自民党どもが!
 貴様等の悪政が今の悲劇を招いているんだ。』

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2011年4月26日 (火)

被災地支援ウルトラマン・ショー これは泣ける、感動してしまう。

・端ッからマスコミ、TV局従えて、宣伝活動しているような芸能人の被災地訪問、炊き出しなんていうのには、フン!と蔑むが、この避難所訪問映像には泣ける。(;_;)

・もちろんこれだって後ろに控えてる企業の思惑などはあるだろう、だがウルトラ兄弟の姿、それを見る子供の顔、目を見ていると「やっぱりウルトラマンやウルトラセブンは、地球を守ってくれるヒーローなんだなぁ」と思えてくる。

・着ぐるみだと分かっていても、夕暮れの校庭で目とカラータイマーを光らせている姿を見ると、中に人が入っているなんて思えなくて、本当にウルトラセブンやウルトラマンがやってきたように感じてしまう。

・男だからかなぁ? 女の子はちょっとこういう感じは受けないかな? 日本以外だったらスーパーマンとかスパイダーマンとかになるのかな? そんなことを考えながらも、やっぱりウルトラ兄弟がこんなふうに目の前に来てくれたら、自分も涙流して感動しちゃうかもなぁ。

・ウルトラシリーズは純粋なものがある。純粋な夢や平和を求める思いが、そんな気がするからこういう映像を見ると泣けてきてしまうのかもしれない。

・サントリーのCMも感動したけど、このウルトラ兄弟の映像にもジーンと感動した。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=Px7s9xc_8YE


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2011年4月14日 (木)

感動!さすがサントリー、いやサン・アドか! CM「上を向いて歩こう」

・3月11日以降、TVで繰り返し流されるACのコマーシャルにはうんざりしていた。
ニヤ付いて「一人じゃない、頑張れば出来る、日本を信じてる」なんていう芸能人の偽善プンプンの顔からは災害に対する心の痛み、被災者に対する思いなんて全然感じられない。そういったものが顔に浮かんでいない。ふんぞり返ってCMで綺麗事言ってるとしか思えない。そんなCMを作って流すACもホントに馬鹿共だな、最悪だなと思っていた。

・そんな時、ふと流れてきた歌。「見上げてごらん、夜の星を・・・・・・」というフレーズ。

・歌っている姿だけで、他には何も言わない。

・頑張ろうだとか、信じてるとか、応援してるなんていう上っ面の言葉なんて何も言わず、ただ歌っている姿を流している。商品のことも宣伝せず、ただ、見上げてごらん、夜の星を、としか伝えていない。

だけど、どんなに沢山の言葉を重ねるよりも、強い強いそして温かい、心の芯から滲み出してくる真の応援の言葉だって思える。分かる。

・流石だ、流石サントリーだ、そしてサン・アドだ!

・開高健と山口瞳を擁して、佐治敬三が作ったサントリーの広告会社は、やはりその企業文化が、その理念が、品格が今でも凛として崇高なのだ。

ノブレス・オブリージス。開高健が残した言葉が会社の中で生きているのだ。

・サントリーでなかったら開高健や山口瞳の精神が宿っている、サン・アドでなかったら、こんなCMは出来なかっただろう。作られなかっただろう。我欲と利益最優先の中でしか戦えない企業には、こんな崇高な感動的な気高いCMは作ることは出来ないだろう。

・東北の大震災の後、TVに流れるこのCMを観て、この歌を聞くたび心が癒される、本当に頑張ろうと思いを新たにする。

・素晴らしい、感動した、この気持はたぶん一生続くものになる。

・心を鼓舞するこのCMが頑張ろうという思いを一番強く送ってくれている。


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2011年3月 6日 (日)

『夏の闇』直筆原稿縮刷版。これは読むではなく”見”るだ。・

・2009年某日 開高健記念館で直筆原稿版『夏の闇』を初めて目にしたとき「これが夏の闇か、これが開高健が夏の闇を書いたときのそのままの原稿か、そのままの文字か」と、目を見張った。だけど、それを欲しいという気持ちにはならなかった。
Natsunoyamiatutograph2・開高健の代表作であり昭和の文学史に残る名作と言われる「夏の闇」をこんなふうに大兄が書いたままありのままに復活させた方々の努力や情熱、開高健への思いには敬意を表す。
・だが、この「夏の闇 直筆原稿版」を買って手元に持っていたい、自分の部屋でじっくりと読んでみたいという心の欲求は、その時沸き上がってこないというのが正直な気持ちであった。
・本当の生原稿はもっと汚れたり傷んだりしているのだろうけれど、それをほぼ完璧な状態に修復してあることが却って、真っ白いページにのった開高健の文字、言葉、そこに込められた心情が、頁から乖離し浮き上がっているような気がして、この大きな本自体が開高健の心と相反しているような気がした。
・去年のことになるが2010年5月にその「夏の闇直筆原稿版」が縮刷版という形で通常の単行本サイズで発売になるということを知った。「オーパ」も直筆原稿版ということで発売されるらしいが、やはり気持ちはプラスの方には動かなかった。単行本サイズになることで多くの人が手に取りやすくなるだろうとは思うけれど、なにか商売臭さ、金儲け臭さが漂っているようで、フンと鼻を鳴らしただけでそっぽを向いてしまった。

・折しもちょうどその頃「長靴を履いた開高健」の著者である滝田誠一郎氏のブログにこんなことが書いてあった。

「だが、しかし、だ。小説家は果たして自らの肉筆が世間に晒されることをどう思っているだろう?喜んでいるだろうか? 少なくとも望んではいないはずだ。小説家が書いたものが作品化されるのではなく、商品化されることに私自身は違和感を覚えずに入られない」引用:Blog 長靴を履いた開高健

まさにその通りであり、自分も直筆原稿が商品化され売り出されることに、嬉しさもあれど、すっきりしない違和感も感じていたことは確かだ。

・それから数ヶ月が過ぎた。去年は開高健生誕80周年という名目で本が出されたり少し話題が多かった気がするが、今年は静かな気がする。なに気なくいつものように古本屋をのぞいたりしてうろうろとしていたところ、また偶然に新潮社から出ていた「夏の闇直筆原稿縮刷版」を見つけた。今までは買う気持ちもしていなかったのだが、これもまた何かの縁だろうと購入することにした。

Imgp0001_resize1 ・部屋に戻り、ベッドに寝転がってもぞもぞと買ってきた本を取り出す。小説の中味はもう何度も読んでいるので、新しい本を読み始めるような期待感もなく、単にどんなものかなという程度の気持ちで本の扉を開ける。開高健のまん丸っこい文字、所々にペンで線を引いた修正の後、じっと見ているとなんだか開高健がこの原稿を書いているその場に自分も居るような気持ちがしてくる。

・今までずっと、直筆原稿版には否定的な気持ちだったのだけれど、こうして直に手に取りその頁を見ていると「ああ、これはこれで小説とは全く別の感慨を受けるな」と初めて分かった。確かに、印刷されたものではあるけれど、その文字には大兄の息吹が宿っている。今でも、熱く、そして力強く。

・言ってみればこれは写真集のようなモノと言うべきかも知れない。今までは小説、文学本の一つとしてこの直筆原稿版をとらえていたのだけれど、そうではないのだ。これは開高健の心を映し出した文字の写真集と考えるべきなのだ。

・自分は食わず嫌いをしていたようだ、直筆原稿版に対して自分の先入観からくる偏見をもっていたようだ。この本には小説本とはまるで異なる別の力が宿っていた。

・これは読む本ではなく、見る本だ。言葉を見る、その言葉に宿った熱意、感情を見て感じる本なのだ。

・発売されてから今までこの本を手にしなかったことを 少し反省。

 

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2011年2月 8日 (火)

最近の開高健特集記事(2) 忠さんのスプーン・カタログ

・「新しく出来たアートフィッシングのカタログがなかなかいいよ。これはもらってとっておくべきだよ」知人から電話で教えてもらった。

・忠さんのスプーン、バイトの新しいカラーも見てみたいとは思ったが、それ以上に開口健と銀山湖、往年のルアーフィッシング草創期のことがたっぷり書いてあると言う。それは直ぐにでも欲しいとアートフィッシングにお願いして送ってもらった。

・これは内容がいい!

・奥只見ダム、銀山湖が出来たばかりの頃、大岩魚が群れをなしていたころの物凄い、素晴らしい情景が文章を読んでいて目に浮かぶ。もう二度とこんなことはない遥かな昔のことなんだろうなぁとなにか寂しさも感じてしまったけれど。

・当時、村杉の佐藤さんはゴロ引き(ガラ掛け、ギャング針、引っ掛け釣りとも言う)で岩魚を獲っていたということも初めて知った。開高健がキャッチ&リリースを広めた最初の場所ということもあり、今まではまさかゴロ引きで岩魚を獲っていたなんて釣り雑誌も、文芸誌も書きにくかったのだろう。その点でこのカタログの文章は非常に珍しく、真実を語っている貴重なものだろう。

・そのゴロ引きで掛けた岩魚がなんとゆうに70cmを超え、鮭というか鯉というか丸々と太っていたというのも、本当に驚くべき話だ。その当時の毛針やエサ釣りの竿、仕掛けでは掛けたとしても取り込むことはできなかったという。そこで常見忠さんが試したルアーの釣り。大岩魚が獲れた。そしてここから日本のルアーフィッシングは始まっていった。日本のルアー釣りの起源とも言える貴重な話だ、歴史だ。

・そして、常見さんと開高健の出会い。その辺の流行雑誌や釣り雑誌がちょちょちょっと特集する開高健、銀山湖の話よりもこのカタログに載っている数ページの文章と写真はずっと中身が濃い、虚飾されていない本当の当時の様子と言えるのではなかろうか。

・このカタログは開高健を語る資料としても貴重、そして内容に今迄知らなかった記述もあり、非常に興味深く考えながら読ませてもらった。きっと、まだまだ知らない開高健、奥只見、銀山湖の逸話、面白い話は沢山あるのだろうなぁ。文字にしたり本として出版できないようなものも含めて。

・本当はそういう部分にこそ面白さと真実は隠れているのだろう。

・開高健ファンならば、このカタログは必読かな。

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最近の開高健特集記事(1)VISAカード会員誌2010年12月号

・開高健生誕80年の年の最後の月にVISAの会員誌で開高健特集が組まれていた。ページ数10。
《開高健のダンディズム》

会員誌の表紙にもなにも書いていないし、偶然に気が付かなかったらこの会員誌を手にすることもなかったかもしれない。

・内容は島地氏談、グルメ話、酒話、大岡玲氏による開高健五つの金言など・・・・・。

・だが、その中身に目新しいものは無かった。今まで沢山の本や雑誌で書かれ、語られてきたことの繰り返しだ。正直なところ、どの記事も面白くはなかった、期待外れだった。

・それは自分があれこれと沢山開高健関連の書物を見て読んできたためなのだろう。この会員誌で初めて開高健に触れる人には、こんな作家が日本にいたのだという驚きがあるかもしれない。

・だが、自分にとっては、この特集は「また同じようなことの繰り返しか」という気怠さでしかなかった。

それも大兄の言う”知る悲しみ””知恵の悲しみ”ということなのかもしれないけれど。

・我が侭、身勝手な希望だけれど、これからも度々色々な雑誌などで開高健が特集されることはあるだろう。記者、ライター、編集者の方には、過去の開高健関連の本や雑誌などをじっくり読んで、今までにない何か、別な切り口、今までどこにも書かれてこなかったこと、新しい開高健の魅力などを、ほんの少しでいいから加えて欲しい・・・と、思ってしまう。本当に自分勝手なお願いだけれど。

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2011年2月 2日 (水)

【備忘録】ネットに吸い込まれる時間の奪取(3)

・そう、電車のなかでも歩いていても、ちょっとした時間があると携帯やネット端末をチェックして、あれこれ要りもしない情報を眺めている大人の姿。それは学生ともなんら変わりないかも。情報と機器に躍らされて疲弊しているのは自分たち自身ということに多くの人は気がつかない、気がついていてもなかなかそこから抜け出せない。ある意志をもって立ち切らなければネットに人間がドンドン吸収されていってしまう。

・ネットのニュース配信に100円払うなら、古本屋に沢山ならなんでいる文庫本を一冊買って、1分時間があれば数行読んでいるほうがいい、そのほうが成長するだろう。古典思想の名著を3冊鞄の中にいれておいてもたいした重さにはならない。ネット端末を引っ張り出すより名著に目を通そう。いつの間にか企業にあおられ、どこでもwi-fi、どこでもツイッターやミクシーやフェイスブックにアクセスしないと不安だというのは、企業に洗脳されてしまった人間とも言えるのではないだろうか?

自戒せよ、と繰り返さなければならないなぁ。

・以下日経ビジネスオンラインの記事から抜粋引用。不安、危惧、考えている点は非常に近い。最終的にはしり切れトンボになっている内容なのだが、所々にそうだよなと頷く部分あり。

◆あらためてコミュニケーションについて考えてみようと思う。これは、とても大切なポイントなのだ。色々な角度から考察してみる必要がある。インターネットは、われわれの対人能力を増幅するのか、それとも退化させるのか。一度真剣に見つめ直してみなければならない。

◆新幹線が高速化したおかげで、日帰り出張が増えたというのはよく聞く話だ。大阪出張が前日泊と食い倒れ観光込みのお楽しみ業務であった時代のアナログ社員と比べて社員は、明らかな労働強化を強いられていることになる。

◆同様にして、授業の合間の休み時間にメールを確認し、フォロワーのツイートを追い、マイミクのボイスをチェックしている平成23年の大学1年生は、不当なコミュニケーション依存に向けて駆り立てられている。大量のメッセージ交換をこなしながら、1日の終わりには、単に疲弊している。

◆過剰な競争はすべての競争参加者に不利益をもたらす。競争は、ある臨界点を超えると、より深く自分を傷つけた者だけが勝利を得る倒錯の段階に到達する。

◆触れる物すべてを黄金に変えることのできたミダス王が、ついにはたった一つの新鮮なリンゴさえ口にできなくなったように、万能の指先連絡ツールを持って生まれてきた若者もまた、シンプルな幸福から遠ざけられる。彼は仲間内の相互監視から逃れることができない。そして、孤独な時間を楽しむ方法に疎くなり、ついにはコミュニケーションそのものに損傷される。

◆ほんの少し前までは、単独行動の学生はそんなに珍しい存在ではなかったということだ。一人で昼飯をとる学生の姿は、キャンパス内に普通にある自然な風景だった。友達のいる学生であっても、携帯電話で連絡がつかなかった時代は、別々に過ごさざるを得なかったわけで、そういう意味では、われわれは、誰であれ、単独で過ごす時間をけっこうたくさん持っていた。だから、そのことをひどく気に病んではいなかった。

◆社会人の交友は多かれ少なかれ利害をはらんでいる。立場の違いや命令系統の上下に分断されてもいる。だから会社をベースにした付き合いは、「場」を共有していてなお、友情を育むのには向いていない。私自身、学校を出てから知り合った知人の中に友達を見つけることはついにできなかった。尊敬できる人もいるし、面白い人物とも幾人か知り合ったのだが、それでも、友達というのとは何かが違う。


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2011年1月11日 (火)

BS-TBS 秘境 奥只見~巨大イワナの棲む山~

・BS-TBSで「秘境 奥只見~巨大イワナの棲む山~」という番組を放送していた。

・こういった銀山湖や奥只見を扱った番組は一年か二年に一回位はあるのだが、中身は観光案内にちょっと毛が生えた程度というものが多かった。そして「昔ここに芥川賞作家・開高健が来ていた」ということをちょっと話題として盛り込むのがパターンであった。

・今回の番組もあまり期待していなかったのだが、見始めるとなかなかしっかりとした撮影をしている。奥只見の熊撃ちというのは初めて知った。東北のマタギとほとんど同じように山に入って熊を追う奥只見の猟師の姿には見入った。確かに一山越えれば福島なのだからマタギ的な伝統があっても当然ともいえるのだろうけれど、それにしても奥只見でのこういう話は今まで全然知らなかったな。熊肉の串焼きがなんだかとても美味そう。熊鍋も食べてみたい。熊肉は知床で鉄板焼きとラーメンの中に具として入っていたものを食べたことがあるが、どちらも歯応えはあるけど味が全然しなかった。敢えて獣肉の臭みをけしていたのかもしれないが、本当の熊肉というのをがぶり、むしゃむしゃと食べてみたい。映像でみるとなんとも美味そうだった。

・奥只見・銀山湖と言えばもう定番中の定番となった開高健が村杉小屋に逗留していた時の話、釣りの話題はほんのすこし。開高健が広めたとされるキャッチ&リリースのこと、村杉の佐藤進さんが語る開高健の思い出、銀山湖の岩魚の乱獲、魚がみるみる居なくなっていったこと、常見忠さんが語る岩魚激減と北ノ叉川の禁漁区のこと、1981年に北ノ又川が永久禁漁の保護河川に指定されたこと。代々密猟者を監視する星和夫さんのことなどいわば銀山湖、奥只見の歴史の教科書のような内容だ。

・銀山湖といえばもう定番となった開高健つながりで常見忠さん、村杉の佐藤さんも元気な姿で登場しているが、それにしてもみなさんもうほんとにお爺さんになっちゃったなぁ。開高健が生きていたらどんな感じだっただろうと思ったりした。

・新しい村杉と今の村杉のご夫妻の姿もちらっと。山菜料理も美味そう。山菜チャーハンは出てこなかったけれど。

・今ごろの銀山平は大雪で宿もぜんぶ埋まって一面の銀世界なんだろうなぁと思いつつ、こんな映像を観ていると「ああ、また行きたいなぁ」と思ってしまう。お祭りの時期にも一度行ってみたいとはおもうけれど、少し寒さが緩んで、新緑が眩しいくらい目に飛び込んでくる季節に、山菜がめちゃくちゃおいしい季節に訪れて、シャキシャキとした山菜料理を、モリモリ、ジャキジャキと音を立てながらたらふく食べたいものだ。大鳥ダムもじっくり攻めたい。そんなことを考えると人生なんてあっという間かも。いちばん良い時期にあそこに行けるのは毎年行ったとしてもあと何十回しか行けないんだから。

・魚はなかなか釣れないけどね、今の銀山湖は。

・17日に後編が放送されるという。たぶん後編は秋の北ノ叉とか魚や釣りのことももう少し映るんじゃないかな? これはきちんと録画して保存しておこう。

☆1月17日秘境・奥只見「巨大岩魚の棲む山」後編

・後編はどちらかといえばやはり奥只見の観光案内的なものかな? 中身は前編の方が興味深く濃いものだったかもしれない。それでも北ノ又の上流部は見たことがなかったし、岩魚の産卵光景などはなかなか見ることの出来ない貴重な映像であった。

・村杉の奥さん、奥只見山荘の若旦那+お子さん、湖山荘の手打ち蕎麦、夏の雪祭りの光景と、見ていると奥只見に居るような気持ちになってきた。

・発眼卵放流の様子も初めて見た。グリーズドラインの店長と息子さんも映ってたかな? この番組は奥只見、銀山湖を映した番組としては色々あるなかで今までで一番美しく一番中身が濃いものかもしれない。

・TVを見ながら非常に満足の一時だった!

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2011年1月10日 (月)

YouTubeから開高健関連の動画が一斉に削除。

・以前は色々な人がアップロードしていた「開高健の釣り紀行」やサントリーのCM、公演会の音声など様々な開高健関連の動画があったのだが、いつのまにかその殆どが削除されていた。

覚えているだけでも
チョウザメ釣り、モンゴルのイトウ釣り、ハナス湖の巨大魚、スコットランドの釣り、各種サントリーCM、NHKのあの人に会いたい、講演会の音声などなど、開高健に関するいろいろな映像、データがyoutubeにはかなりアップされていて、今では観ることの出来ない映像を知り、観ることができたのだが。
それが一斉に削除されている。

・著作権侵害だ、それが法律だと言われたら返す言葉はないが、何にでも柔軟性をもった運用、解釈というものが必要だ。釣りのシリーズは30年も前のTVの映像でさして映像もクオリティーも良くはないものが分割投降されていたのだが、当時の開高健を知らない人、開高健のTV番組を観たことのない人にとっては貴重な映像でもあった。「河は眠らない」以外のビデオ作品はDVD化もされていないし、新しく開高健を知る人にとっても、かってを懐かしむファンにとってもyoutubeに上げられていた映像しかあの頃の開高健の釣り紀行を、そして開高健の言葉を観て聞く方法はなかったのだから。

・サントリーのCMも全部なくなっている、フラッグストップのCMなんかはとても好きだった。

・なんでもかんでも杓子定規に著作権違反だとこういった映像を削除してしまうのは、正直なところ自分としては気にくわない。youtubeで開高健の映像を観て新しくファンになる人もいるだろうし、今でも多くの釣り人にとってあのころの開高健の映像は憧れなのだ。

・ハイビジョンの画質で商品と変わらないくらいの質でyoutubeに投降されていたのではそれは問題だが、以前に観ることのできたような映像であれば、それは開高健という人とその行動、輝きをしるプロモーションビデオといってもいいものだったはずだ。

・ひょっとしたらどこかの会社がDVD化されていない釣り紀行をまとめてDVDなりBDにして売り出そうとしていて、その前段階としてyoutubeの大掃除をしたのかもしれないとか思ったりもするが、そういう情報もまだ聞こえてこないし。

・なんにしても冬の夜長のちょっとした楽しみで開高健の釣りの映像を観てみたいと思ったら、全部なくなっているものだから、ちょっとがっかりしてしまった。

・どこかの誰かが削除要請したのなら、過去の映像をまとめてDVD等で商品化して開高ファンがいつでも観れる状態にしてほしいものだ。。

・そう憤りつつ言いたくなった。(`o´)

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2011年1月 7日 (金)

2011年元旦 朝日新聞(関東版)集英社全面広告 開高健

Pop03_22 ・2011年元旦の出版各社、恒例の新聞全面広告。漫画キャラを打ち出したものが多かった。新聞広告であるし、売るため、注目を集めるため、今一番人気があり人目を引くキャラクターとしてアニメを使うのはビジネスとして当然かとも思うが、なにかこれでいいのかというたる思いも胸に湧いてくる。

・その他の広告も、女性誌、辞典、新書を扱ったもの。ちらりと見るがその写真や中身に興味はわかない。

・一年の計は元旦にありというのだから、なにか商売宣伝だけでなく、会社としての考え、主張、世の中に訴えかけるような思想、決意だとかいうものを打ち出して欲しいものだ。それが文字から派生する文化の担い手(であった)出版社の立ち姿であろうとも思うのだが。

・そんな元旦広告の中で一つだけ、明らかに他とは並びの異なるものがあった。集英社の元旦全面広告は各主要紙に掲載されていたが、他はマンガと女性誌。朝日と産経に出された元旦広告がこの開高健の姿を一面に打ち出したものだった。

・文字離れ、出版不況、電子書籍が叫ばれる今の時代、文学集なんてたぶん全く売れないだろう。しかもそのテーマが「戦争x文学」。こんな文学集を出したってどれだけの人が買うの? 興味を持つの? とは思いつつも、こんなことをする集英社にひっそりと拍手を送る。

・ある意味、元旦に二紙に限ってではあるけれど、こういった全面広告を出したのは集英社としての誇りや意地のあらわれというものではないだろうか? 他社の広告とこの広告はまるで違うのだ。あちこちが出した元旦全面広告の中で、この広告だけが意志、主義、主張、哲学といった忘れ去られそうなもの、忘れてはならない光を持っている。

・この文学全集を出したところで会社の売り上げにも利益にも貢献はしない、その文学全集の広告を出したところで売り上げにも利益にも貢献することもない。それでもこれを2010年の元旦に掲載したという点に集英社の意志、主義、主張、哲学がある。もちろん十分に儲かっている余裕があるから、一つや二つ真っ赤っかの出版物があったっていい、真っ赤っかでもいいから、血と汗が染みついた、人の心をほんの少しでも揺り動かし鼓舞するものを出せという動きが出来るのだろうが、それでも今の時代にこんな文学集とこの広告を出したことに、人や出版社や文学が目指し、伝え、変えていく使命といったものを忘れてはいない、無くしてはいないぞという意地と気迫を感じる。

・その全面広告が大兄開高健のこの写真であるということ。この広告の気高さ、尊厳の高さに感動した。

「兵士に囲まれて平和を思った。平和に囲まれて君は何を思う」

なかなかのコピーだ。(だれがかいたのだろう?)

・今が平和な時代だとは思わない。平和だと誤魔化され搾取されている時代なのだとおもう。それでも世界各地で戦争が起こっていた時代よりは平和だと言えるのだろう。でも今あるものは本当の平和などではない。

・この広告とこのコピーとこの開高健の姿を見て、どれだけの人が心を動かされるだろう? 若者はこの広告を見ても、なんの興味も持たず、横目でちらりと見ただけで記憶にすら残さないのだろうか? 

・2011年の元旦に、この広告を見て、心を新たにする。

・この広告が叩き付ける意志によって少しでも多くの人が何か大切なものを思い出してくれれば、そんなことを思う。

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2011年1月 3日 (月)

2011年の計、断捨離! ネットに吸い込まれる時間の浪費を止める。

■最初にipodが発表されたときは興味も持たなかったんだけど、miniが発表されたころになってようやくこれいいかも? と思い、当時としては高かったけど第二世代の20Gモデルを購入。

【2004/9】
Apple iPod 20GB (Click Wheel第三世代) Mac&PC   ¥ 33,390 ←いまからすれば高かっなぁ・・・

もうかれこれ6年以上も使っているんだ。改めて時間の流れの早さに驚いたりしている。

■現在3300曲入っててまだ6.5Gも容量が余ってる。MP3からAACにフォーマットが変更になったからかなり曲の容量が減った。

最近新しいCDも買わなくなった。時々流行っている曲が気に入れば一曲二曲追加するという程度。80年代90年代のようにCDをコレクションするという気持ちももうない。たぶんこの20Gモデルを満杯まで使うことは暫くなさそうだ。

■3300曲もあると車の中でランダムで流してても半年以上余裕で曲がダブらないし。

■このipodは一度HDがクラッシュしたが補償してもらって、現在までいたって好調。殆どカーオーディオに接続してる状態。

■昔CDチェンジャーとかMDチェンジャーでアルバム20枚分位しか車の中で再生できなかったことを思い出すとなんだか隔世の感あり。

■tubeとかZARDの歌には「助手席のカセットテーブ」なんて歌詞があるが、そんなこと理解できない世代がほとんどなんだろうなぁ。

■その後、お気に入り曲だけを電車の中で持ち歩くようにipod shuffleの第一世代、第二世代と買いつないで今に至るが、流石に容量1Gだと「もう少しこの曲も入れておきたいなぁ」と思ったものも入らない。シャッフル1Gには230曲入っているので充分な曲数なのだが。

■ipodに3200曲も音楽を入れていてもやはりよく聞くのはお気に入りの曲が中心。それを考えるとどんなに多くても、今後新しい曲を追加したとしても4Gもあれば通常聞く曲数は殆ど100%カバーされると思った。4Gあれば1000曲近く持ち歩けるのだから。

■ということでもう少しだけ容量が大きく、軽くて小さく、胸のポケットに入れても気にならない位の携帯音楽プレーヤーが欲しくなった。」(無くてもいいんだけどね)

■じゃあipod nanoでももう一台買おうかと思ったが、今のnanoは昔のシャッフルと同じ位小さく、いや小さすぎてこれって却って使いにくい。初代ipod mini位の大きさでバッテリーの持ちが良い奴が理想。
そう考えると何もipodじゃなくてもsonnyやkenwoodから出ている携帯音楽プレーヤーの方が良い感じがする。itunesの操作は洗練されているが、リンクされたipodじゃないと使えないなんて制限もあるし、日本製の携帯音楽プレーヤーなら単純にHDに音楽ファイルを移してして持ち歩くと言う気楽さがある。

■お正月に色々とみてみたが、今の自分の好みにこたえる機種となるとsonnyのウォークマン・モデルになるかな? 最初にipodを購入してから10年、今発売されているipodは160GBもあって22800円、すごく安くなってるけど、もうこんな容量のものを買っても自分のスタイルでは使いようもあるまい。ビデオを持ち歩くという気持ちもないし。

■普通に考えれば今はipod touchなのだろうが、これは単純な携帯音楽プレーヤーとは違うしね。

■メーカーがあれやこれやと新機能、新商品を出してきて、それに煽られるように飛びつき購入し、まるでアップルの宣伝マンのごとく、人に会う度に「新しいコレ買ったけどイイよ、凄いよ」と見せびらかし、説明する人がいるが・・・というかアップルに洗脳されたがごとくそういうことをする人って物凄く多い。

■自分もMACのファンではあるが、もう次から次へと出てくる新しい製品に飛びつく気持ちはない。必要ではないものまで提供され、それがさも必要であるかのように思い込まされ買わされるという流れはもういい加減にしてもいい。断捨離って言葉が流行っているけれど、ほんとにその考えには同意する。新しい物、技術にはそれは凄いものがいっぱいだけど、本当にそれが自分にとって必要か? 本当にそれが自分と自分の生活をほんのちょっとでも良くしてくれるのか? あれこれ大人向けの高額なおもちゃを見せられてそれに飛びついているのが今の世代なんじゃないか? そんな風に思って、敢えて無駄な金、物は買わないようにしようと新しい年の初めに思った。(あれ? それじゃ新しい携帯音楽プレーヤーもいらないか? 笑)

■ネットにしがみつき、ちょっとでも時間があると携帯でネットにアクセスし、ニュースを見たり、ゲームをしたり、自分の時間をドンドンネットや新しい製品に吸い取られていっている日々。ネットを見たりゲームをしたりする僅かな時間があれば小説の一ページでも読もう。文学や評論を数行でも読んで自分で考えよう。同じことはipadが発売された時も思ったけれど、新しい年はもっと自分の時間を本当に自分のために、ネットに吸い込まれて無駄に浪費しないように心掛けよう。

■これを2011年の計としよう。

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2010年12月26日 (日)

SEVEN SEAS セブンシーズ「さらば巨匠 開高健追悼特別号」

・開高健が創刊に関わりバブル期に華々しく創刊されらた高級雑誌『SEVEN SEAS/セブンシーズ』。ラグジュアリー層向け雑誌と謳い、実に豪華な写真、豪華な記事で埋め尽くされた本当にバブリーな雑誌。

・日本での創刊が1988年と言うことだからちょうどバブル経済のスタートと時期が同じ。だけど自分はこういう雑誌があったということを数年前まで知らなかった。一冊3000円もする雑誌で、普通の街や駅中の本屋などに並んではいなかったし、取り扱い書店も限られていたから目に留まることもなかったのだろう。

・創刊の経緯はやはりバブリーな背景があってのことらしい。
「当時アルクは『ヒアリングマラソン』という商品がとても売れていて、その税金対策というのもあったんですけれど一方で、「捨てられないくらい贅沢な本を作る」というのはアルクの社長の夢でもあったんです。それで、故開高健先生を編集顧問にして豪華絢爛な本を作ることになったのです」佐藤真理子氏
http://www.bunka-kaigi.com/archives/2008/02/post_70.html

・こういう雑誌があったというのを知ったのも”開高健”絡みでもある。
セブンシーズは作家、開高健の「世界にはすごい奴がいる。世界にはすごい物がある」という言葉とともに産まれた。とされている。

Seven_2・だが、創刊の翌年、開高健は鬼籍に入った。開高健が雑誌に絡んだのは創刊前の企画段階から、創刊して数号までの一年ちょっと位だったであろう。
開高健が亡くなった翌年、1990年7月号で「さらば巨匠 開高健追悼特別号」が発行されている。これも手に入れて読んでみたいと思ってはいたが、なにぶんにも発行部数も少なく流通量も多くない雑誌であったため古書店などでも見かけることは少なく、たまにネットオークションや古書店のサイトで見つけてもずいぶんと高額な値付けがされていたりして手を出すという気にもなれなかった。

・開高健の没後直ぐに発行された追悼本「ザ・開高健 -巨匠への鎮魂歌-」「太陽 特集 開高健」は中身も濃く、資料本としても価値のあるものだが、その後時を経てたまに発行される開高健特集モノ雑誌はといえば釣りや食の話題を表面的に扱ったようなものばかりで、もう雑誌の開高健特集に価値のあるものはないだろうと思ってもいた。セブンシーズの開高健追悼特集号も果たして内容はどうだろう? 開高健が編集企画に絡んだ雑誌だとはいえ、どうも雑誌のコンセプトと開高健の生きかた、考え方には相容れない、馴染まないものがあるようにも感じていたので、追悼号もどうしても手に入れたいというほど欲求が高まらなかった感がある。だから古書店で見つけてもその値段を見て、これなら要らんと思っていたのだ。

・その「SEVEN SEAS/セブンシーズ」も時代の流れだろう、廃刊だ休刊だという波をなんどか乗り越えながらも、遂にアルク社が売却し、2007年に(株)インターナショナル・ラグジュアリーメディア社(セブンシーホールディングス(株))によってリニューアルして再発行されたという経緯を辿っている。

http://www.sshd.co.jp/wp-content/uploads/nr070507.pdf
だが、リニューアルから2年、2009年春に「SEVEN SEAS/セブンシーズ」は遂に休刊となる。この100年に一度とか言われる不況で、こんな雑誌はほとんど売れないだろうというのは世の中の状況から言ってしかたないことだろう。時を同じくして「エスクワァイヤ」も休刊になった。

・そもそもの所、自分はこの「SEVEN SEAS/セブンシーズ」と開高健の繋がりに関しては疑問を感じていた。南国のビーチで遊ぶ、豪華客船の旅、豪華絢爛たるリゾートライフ、最上級の女と酒。宝石や時計、服、酒、食事に金を注ぐ。それは確かに男が誰しも憧れ求めるものでもあるだろうし、そういう世界にどっぷりと浸ってみたいというのは男の夢でもある。しかしそれはこの雑誌の内容と同じく、きっと極めて表面的であり、それこそ”男”の本質に向かうもの、たどり着くものではないだろう。きっとどれだけ豪勢な生活をしても、その行き着く先には虚しさが残る、別の何かを求める。本当の男というものはそういうものであろうし、ましてや”危機と遊び”に男はあると語っていた開高健にしてみれば豪勢、豪華絢爛な遊びも遊びには違いないが、晩年に悟った男が求める本当の遊びとは別個のものだったのではないだろうか。

・晩年に”仕事”として「SEVEN SEAS/セブンシーズ」の編集企画に参加した開高健だが、企画を考えたりあれこれ助言をしたりしながらも「おまえさんたち、こんなもんは本当の男の遊びとはちゃうで」と心の中で思っていたのではないか、そう邪推するのである。開高健の求めた男の遊びとは、未知のもの、今だかって知らない物凄いもの、なのではないだろうか。「オーパ」を代表とする開高健の紀行モノと「SEVEN SEAS/セブンシーズ」が飾りたてた世界とは、根本的に方向が違っている。

・「世界にはすごい奴がいる。世界にはすごい物がある」この雑誌の創刊時に開高健が語った言葉の裏には「こんなもんじゃないんやで、本当の男が行く世界はこんなもんじゃない、世界にはこんなもんじゃない凄い奴、凄い物があるヤデ」という反語が隠されているような気がする。

・なぜこんなことを急に書く気になったかというと、2010年12月のこの年末、古本店に急に大量の「SEVEN SEAS/セブンシーズ」のバックナンバーが流れ始めたからだ。今まではポツポツとたまにしか古書流通に出てこなかったこの雑誌が、この年末、いきなり、それもかなり大量に出回っている。オークションなどにも大量に出品されている。2009年の休刊から約2年、版元が在庫として抱えていたバックナンバーを一挙に処分したのではないかとさえ思える。たぶんこれで「SEVEN SEAS/セブンシーズ」は完全に廃刊ということになるのではないだろうか。

・そのおかげと言ってはなんだが、件の「さらば巨匠 開高健追悼特別号」とその他の号で開高健に関する記事が掲載されているものが今までとは違って随分と安い値段で並んでいた。さすがに追悼号は数が少なかったが、この機会に購入。

・年末はゆっくりと中身を読んでみることとしよう。

12/30追記

・追悼号を読む。約50ページ。菊谷さんの回想。鯉淵さんのモンゴルに関する文。高橋さんの写真。・・・だが、内容的には・・・・これで追悼号と銘打つほどのものだろうか? と思う程度のものだった。落胆。

・同じく1990年12月号に「優雅なるフライ・フィッシング 故、開高健の魂に捧ぐ」という特集記事が掲載されていたのでこちらも購入して読んでみた。こちらのほうが74ページとボリュームもある。だがこれも菊谷さんの釣りの思い出話といった内容だ。めずらしくカプラスの沢田さんが数ページにわたるサーモン・フライフィッシングに関する記事を書いているのでこちらの方が内容は濃い。

バブル期に一冊3000円もする値段で「捨てたくなくなるような雑誌」ということで創刊されたセブンシーズだが、今見てみると分厚くて重いというだけで、なにかこの雑誌からラグジュアリーさだとかが感じられない。エスクアィヤやPLAYBOY,PENTHOUSEのほうが相当に豪華で格があるのではないだろうか? いや飛行機の機内誌でももっと華やかさを感じる。やはりなにか見ている方向性、立っている土台、雑誌のなかで表現しようとしていた世界がセブンシーズは突き抜けていなかったのではないかと思ってしまった。

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2010年12月 8日 (水)

12月8日 ジョン・レノン暗殺日と真珠湾攻撃

・先週あたりからTV、BS、地デジともにビートルズに関する番組だとか、ジョン・レノンに関する特集がずいぶんと放送されている。ジョンレノン 生誕70年 死後40年として色々な番組が再放送されたり、新たなドキュメンタリーが放送されたりしている。

『ザ・ラストデイ~誰がジョン ・レノンを殺したか?~』
『イマジン ジョン・レノン』 (88米)
『ベスト・ヒットUSA/ジョン・レノン特集』
『木村佳乃のイマジンロード~ジョン・レノン生誕70年 愛と平和 』

そして、今日12月8日はジョン・レノンが暗殺された日。TVのニュースで追悼集会やコンサートの様子がとりあげられていた。日本でもあちこちで同じような催しやイベントが行われている。

だけど、同じ今日、12月8日は1941年に真珠湾攻撃が行われた日。(ジョンが生まれたのは1940年)

自分も指摘されるまで気がつかなかった・・・。

TVで真珠湾攻撃を取り上げる特集番組は一つもない。23時頃のニュースで取り上げるかもしれないけど、今日が真珠湾攻撃の日だと伝えるメディアが殆どない。まるで黙殺しているかのように。

日本人にとって大事な事実、忘れてはいけない日。そういうことをマスコミはまるで伝えようとしない。

きな臭い話題だから、取り上げかたに寄ってはあれこれ非合法団体からの攻撃を受ける可能性もあるから面倒だからか? しかし自分もそうであったわけだが、日本人にとって大事な日がすっかり忘却されている。

ジョン・レノンやビートルズが嫌いなわけではない、だが、今日もっと伝えなければいけないことは、今日が真珠湾攻撃が行われた日なんだということじゃないだろうか。

街頭や、ライブハウスやコンサートホールやいろんなところで”日本人”が「今日はジョンの命日です。ジョンは愛と平和を訴えていたんです」と語り、イマジンを歌って”平和を”なんて言っているのかもしれない。

だけど、その人たちは今日が真珠湾攻撃の行われた日なんだということを知っているのだろうか? そんなことを知りもせず、関心ももたず、カッコつけだけでジョンの命日を嘆いているんじゃないだろうか?

TVでイマジンを歌っている人を見ていたら・・・そんな感じがした。

メディアによって情報はコントロールされている。考える力も弱められ、思考の方向性すら一方向にまとめられていく。しっかり意識をはりめぐらせていないと、メディアや権力の都合のいい人間に育てられてしまう。今の若者なんて、きっとそうやって成長させられてきている。

ある種のファシズム・・・と言ってもおかしくない。

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2010年11月28日 (日)

『夏の闇』の映画化が企画されていた・・・・準備稿シナリオがあった。

・偶然に古書店で見つけて驚いた! 開高健の代表作『夏の闇』の映画シナリオ。こんなものがあったのかと目を疑った。色々と開高健の本、追悼集、開高健を知る人の本などを読んできたが『夏の闇』の映画化が検討されていたという話は聞いたことがなかった。

・開高健の文学作品は余り映画化には適していないと思っていた。「巨人と玩具」は映画化されているが、開高健の文学自体がストーリーというよりも修辞された文字の集積と言えるようなものだからだ。

・特に『夏の闇』にいたっては圧倒されるほどの密度の文章、男と女が寝て交わり食べるという単純な行為を繰り返す、ストーリーと呼ぶようなものではない、徹底的に修辞を尽くした文字の集積体と言えるようなものだからだ。

  ・『夏の闇』を映像化したなら、あの密度の高い文字を無くして話だけを映像化したなら、それはポルノ映画に近いものにでもなってしまうであろう。

・兎にも角にも、見たことも聞いたこともないこのシナリオを即座に購入。

Photo_7・原作を読んでいて既にイメージが自分の中で出来ているせいもあるだろう。シナリオを読んでさほど違和感は感じ無い。話の流れは原作小説に沿った形となっているが相当に端折っているのは仕方ない部分がある。目立ったエピソードを四つか五つ抽出して全体を作っている。

・原作と異なる部分は、回想形式でサ・マック作戦で猛爆を受け生き残ったこと、少年が銃殺刑されるシーンなどの『夏の闇』に至るまでの出来事を『ベトナム戦記』から持ってきている点だ。

・原作そのものが話しに起伏がなく男女の交わりと言葉が連ねられている小説なのだから、やはりシナリオも大きな山場もなく、状況が淡々と流れていくだけと言ってもいい。

・映像をイメージすればフランスのラブロマンス文芸作品か、日本の古いメロドラマに雰囲気が近いものかもしれない。それもあまり抑揚のないやはり平坦な内容のものとなるだろう。

・やはり『夏の闇』を映像化することはそもそもにして無理だろうと思っていた。ストーリーではない、完璧に、そして高密度な文字で構成された言葉の集積体とも言える文学作品はストーリーで見せる映画にするのは無理なのだ。

Photo_4 ・それでも『夏の闇』を映画化しようという企画があったということに驚いた。そういった情報はいままで一つとして見ることも聞くことも読むこともなかったからだ。

・ペラ120ページ、ちょうど2時間分のシナリオには現在も邦画やTVで活動している人物の名前がプロデューサーとして記されている。脚本と監督という部分には現在アメリカに在住していて邦画の海外プロデュースや脚本、監督などを行っている人の名前が記されている。

Photo_5・このシナリオは準備稿と記されているがしっかりとシナリオプリント社で製本されたものであり、しかも表紙、裏表紙がなんと光沢金の仕上げになっている。シナリオ本の表紙に光沢金を使うなんて、よっぽど気合が入っているものなのではないだろうか?

・普通準備稿段階でこんな贅沢な経費の掛かる印刷なんてやらないだろう。印刷された年月などは分からないが、まだ景気が非常に良かったかなり以前のものであろう。

・準備稿とは言え、ここまで製本された贅沢な作りのシナリオが出来上がっているということは、もちろん原作者である開高健も『夏の闇』の映画化を承諾した上でのことだろうし、小説の刊行元である新潮社と加わって原作の映画化権は一度販売され(オプション段階かもしれない)、キャスティングや予算までこぎつけなかったが映画化の一歩か二歩手前まで話は進んでいたということになるだろう。

・だが、映画化はされなかった。それは何故か? 開高健が最終的な映画化にOKを出さなかったのだろうか? それとも予算やロケ、キャスティングが決まらず映画化が実現しなったのか? なぜなのかは分からない。

Photo_6・自分としては『夏の闇』は映画化に至らなくて良かったのではないかと思う。この小説はとても映像に出来るようなものではない。今流行のストーリー展開を主体とした小説ではない。とにかく言葉を捻って弄って、練りまわして搾り出した濃密な文字の集積体と言える『夏の闇』はとても映像に展開できるようなものではない、文学でしかなしえない孤高の作品だと思うからだ。

・それにしても驚いた。まさかこんなシナリオが存在しているなんて。いつ頃作られたものなのだろう? 『夏の闇』が発表されたのが1972年、開高健がなくなったのが1989年 開高健にとっては非常に重い作品であったはずだから、発表して直ぐに映画化などという話には乗らなかったのではないかと思う。1972年の小説発表から5年から10年前後経過した頃なのではないだろうかと思ったりしている。

・本人が記述したものではないし、資料としての価値は殆どないものだろうが、以前見つけた開高邸の衣紋掛けだとか、今回のシナリオだとか、不思議な巡りあわせ、出会いというものにワクワクするのは楽しい。

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2010年11月26日 (金)

開高健は釣りを楽しんでいなかった・・・かもしれない。

・”釣り”というキーワードから開高健の世界に入ってくる人はかなり多いだろう。自分も部分的にはそれに当てはまると思う。開高健=釣り師 開高健=釣りをしていた人 ひょっとしたら文学者としての開高健よりも釣り人としての開高健を知る人のほうが遥かに多いかもしれない。

・開高健の本でも売れているのはやはり釣り関係の著作、写真集、エッセイが主となるだろう。釣りがあるから多くの人が文学者開高健に触れる機会が増えた。だがそれゆえに開高健は文学者として一般的に扱われる比重が減ってしまったのではなかろうか。

・開高健の文学を掘り下げて読み、深く知ろうとする人は文学者としての開高健の凄さを知るが、釣りから入ってきて、釣りの部分だけを読み、難しい文学の部分は読まないというひともかなり居ると思う。そういう人にとっては開高健はやはり釣り人という認識に止まる。

・開高健を語るとなるとどうしても釣りを切り離せない。開高健は釣りで有名になったと言っても間違いではあるまい。だがそれゆえに釣りの面から開高健を語り、扱うことばかりが増え、本来の文学者としての面から開高健を見て語る人は全体からすれば少ないと思う。それが開高健の文学者としての不幸かもしれない。文学者としてよりも釣り人としての認知度が圧倒的に高くなってしまっているのだから。

・その開高健の釣りに関する記述を読んでいてふと気がついた事がある。釣りというものはとても楽しいものだ、魚がヒットし釣り上げた瞬間はすべてのことを忘れて目を輝かせ喜び、生きている楽しさと喜びを体中から発散する。しかしいつの頃からか開高健の釣りの記述にはなにかその喜びや楽しさが本当のものではないように感じるようになっていた。素晴らしい修辞、すばらしい描写、いままでだれも表現しなかったような釣りの躍動感や魚の姿、水や木々の美しさを表現した文章は絶品とも言えるのだが、なぜかその文章に、釣り人が魚を釣り上げたときの、あのキラキラとした純粋無垢な喜び。歓喜に身悶えるような眩しい輝きが投影されていない気がしている。どんなところでどんな魚を釣り上げていても、水辺から二歩か三歩引いたところで寂しそうに自分の姿を見ている開高健本人の姿が文章の中にいるような気がするようになった。最初の頃はそんなことを思ったことも無かったのだけれど、何度も何度も氏の文章を繰り返し読むにつれ、本当の、心の底からの釣りの喜びが言葉の中に宿っていないような気がしてきたのだ。

・魚を釣り上げ満面の笑みをたたえ、その瞬間には苦労も悩みも悲しみも全てを忘れて、魚を釣り上げた喜びだけに体中が満たされっている姿が、開高健の釣りをしている姿から浮かんでこないのだ。

・開高健の釣り文学と称されるものを読めば読むほどにその気持ちは強くなっていった。

「開高健は釣りを本当に楽しんでいなかったのではないだろうか?」

いつしかそう思うようになっていった。

何か、悲しみや苦悩といったものが本来純粋に明るく楽しいはずの釣りに影を落としているような気がする。だから開高健の釣りは素晴らしい言葉で、素晴らしく表現されていても、それは表面的なものであり、内面の暗い影を覆い隠すためのもののような気がしてきた。読めば読むほどに「なにか違う、本当に魚を釣り上げて喜ぶ姿とは何か違うのだ。開高さんの釣りは、はち切れて、弾け飛んで、キラキラと輝いていない・・・」そんな風に思うようになってしまった。

・もとはと言えばベトナムで九死に一生を得て命からがら生還し、人が人をいとも簡単に殺す姿、戦争の悲しさ、人間の愚かさを知ってしまったから、自然の中へ、釣りへと逃げ出したことが開高健の釣りへの没頭の入り口であったとされている。自然の中へ、釣りの中へ逃げ出していっても、開高健が知ってしまった人間の悲しさはずっと氏の心の中に張り付き、どんなに素晴らしい自然のなかでどんなに素晴らしい魚とのやりとりをしていても決して消えることが無かったのではないかと思うのだ。

・だから、開高健の釣り姿には影がある。そして開高健は釣りを本当に心から楽しんでいたのではなかったのではと思うのだ。開高健は自然や釣りに逃げ込み、崩れ落ちそうになる自分を心をなんとかごまかし支え続けていたような気がする。

・先日『開高健―その人と文学』大岡 玲著 を読んでいたらこんなことが書いてあった。
石原慎太郎とタクシーに同乗した開高健が、石原信太郎から「あんたの釣りは楽しんでやっていないだろう」と言われたというのである。それに対し開高健は黙って何も言わず俯くだけだったという。

これを読んだとき、自分が開高健の釣りに対して感じていたことが間違いではなかったのではと思った。数十年も前に、まだ若かった開高健が釣りで名を売るようになってきたとき、石原慎太郎がその本質を看破し開高健に語った。そして開高健はそれに何も言葉を返すことが無かった・・・。

・釣りをしている開高健の明るく、行動的で快活な姿が多くの人の開高健のイメージとなっているかもしれない。だがそれは虚の姿なのではないだろうか。そのすぐ後ろには、心の中に抱えた闇から抜け出せず、じっと悲しい虚ろな目をした開高健が立っているような気がする。

・それでも釣りが無ければ、開高健はもっと早いうちに自壊していたのかもしれないけれど・・・。

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2010年10月30日 (土)

文豪、女、悪妻、殺人ブタ・・・・・

・開高健氏と最も懇意だった編集者だからこそ言える、書ける事という事もあるのだろう。『ごぞんじ開高健』の中で、開高健といちばん仲の良かった編集者は「夫婦関係なんて最悪だった、いつも喧嘩ばかりしていた。文豪には悪妻が必要なんだ、世に知られる文豪はみんな悪妻持ちだった。悪妻が居たから素晴らしい文章が書けたのだ」と言っている。

・開高健の著作、エッセイなどを読んでいてふと気がつくのは、家族に関する記述が非常に少ないということだ。『青い日曜日』で妻である牧羊子さんとの結婚にいたる経緯や、自分が家庭をほったかしにして海外を旅していることを妻と娘に問責されたことなどがかいてあったり、雑誌のインタビューで娘と会話しているものなどはあるが、妻や娘を思う言葉や悩みなどを吐露するような記述は非常に少ない。一連の開高健関連の本を読んでいれば大概の人は「家族とは仲があまりよくなかったんじゃないだろうか」と薄々感じるようになるのではないだろうか?

・谷沢永一氏は『回想 開高健』の中で「開高健が盛んに海外に出かけていったのは、妻や娘の居る家から逃げ出したかったからだ」と書いている。同じことは「ごぞんじ開高健」の中で先の編集者も言っている。向井敏氏も『開高健 青春の闇』の中で妻との結婚に至る事情を少し書いている。

・開高健、開高家と仲の良かった編集者、文学者、知人でも開高家の家族の中の悪さ、殺伐とした様子を書いている人は少ない。故人のことを悪く書くようでそれは憚られているのだろうと思う。

・だが、唯一、一番懇意だった編集者はズケズケとあからさまに開高健と妻牧羊子の不仲をあけすけに語っている。自分も牧羊子さんとは天敵、嫌煙の中だったとも言っている。それだけ開高健と仲の良かった関係だったから、妻からも嫉まれていたということらしい。 ・20歳そこそこで子供を作ってしまった開高健は妻を愛してはいなかったのだろうか? 売れっ子作家として沢山の女性と関わった開高健はそれでも妻とは別れなかった。今の時代ならそんなに仲が悪ければさっさと別れて、別れたことすら勲章にしてしまうのではないだろうか? 何故開高健はそんなにまでして逃げていた妻と離婚しなかったのだろう。嫌で嫌で逃げていた家庭、妻、娘を切り捨てて自由になろうとしなかったのだろう? 開高健の著作を読み、開高健を知る人の語るところを読んでいると不思議に思う。

・どんなに嫌でも、嫌っていても、見捨て別れることは開高健の男のダンディズムに反することだったのだろうか? もし別れて足につながれた鎖が外れて自由に飛び跳ねることが出来たなら、開高健はどういう道を歩んだだろう? どういう作品を作り出しただろう? そんなことを思ってしまう。

・牧羊子はそんなに喧嘩ばかりして夫婦仲が悪かったのに、辛くは無かったのだろうか? 

・懇意にしていた編集者が書いたエッセイを先日読んだ。その中でまた開高健と妻の夫婦仲の悪さのことが書かれていた。一番開高健と仲がよかったからこそ書けることなのだろう、他の人でそこまで踏み込んで開高健と牧羊子の仲の悪さをしゃべっている人は居ない。

・その本の中にこんなことが書いてあった。「二人が喧嘩をすると巨体の開高健は妻である牧羊子の首を殺さんばかりに締め付けたと。すると牧羊子は開高健の弛んだ腹の肉に噛み付きながら”この殺人ブタ”と叫んだ」という。開高健も”殺人ブタ”と言われるともう気力も失せてどうにでもなれと言う気持ちになったと言っていたという。

・あまり死んだ人の過去を裸にするようなことは良くないとは思うが、それにしても強烈でありよくもそこまでバラしていいのか? とも思ってしまう部分もある。他の人では書けない、言えない、本当の二人の姿なのだろうけれど。

・そんな牧羊子が開高健の葬儀の後にくだんの編集者を家に呼び「ようやくこれで開高は私のものになりました」と言ったという。 ・憎しみあうくらい中が悪かった二人のようだけれど、牧羊子はそれでも開高健を愛していたということなのだろうか? いや、なにかそれは愛ではないもののような気もする。

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2010年9月12日 (日)

《アイ・リメムバー・ケン・カイコォー》 ZAURUS 則 弘祐氏のエッセイ

・ZAURUSのホーム・ページに『アイ・リメムバー・ケン・カイコォー』というザウルス創業者則 弘祐氏のエッセイが掲載されている。http://www.saurus50.jp/essay/nori/nori24.html 

・このエッセイは数多の開高健に関する記述の中で異色であり貴重な一編。

・開高健に関する記述の多くには、開高健に対する芥川賞作家、文豪、著名人という距離感が漂っている。それは尊敬、敬愛の気持ちの表れで一段上の人を語る、上目づかいで氏を見ているような記述なのだが、それゆえに同じ目線から書かれた雰囲気ではない。

・書くものがある程度開高健をオブラートに包んで書いていると思われるなと感じることもある。

・しかし、則氏のエッセイにその雰囲気はない。同じ釣り人、それ以上に負けたくないライバルという雰囲気で開高健を語っているかのように感じる。だから、これまでの開高健のことが書かれた記述よりも、熱があり、開高健の本当の姿、開高健のありのままの姿がエッセイの中に漂っている気がする。装飾も、虚飾も媚へつらいもなにもない、そのままの開高健の姿が則氏のエッセイから滲み出ている。

・銀山平・村杉小屋での開高健の様子も今までどこにも書かれていない、全く新しく知る開高健の姿だ。

話しについていけない・・・・・。
仏文学と言った自分を反省した。
でも、もう遅かった。完膚なきまでにやられた。同時に自分の無知を恥じた。
と同時に、なんで大金をかけて釣りに来て、釣りのヘタなオヤジにそんなことまで言われて・・・・・。血気盛んな若造は本気でそう思った。冗談じゃねぇ。
一発で僕は彼を嫌いになった。 》

彼と最初に会った印象が悪かった。
それはこうだ。

いつものように明け方にロッジに着いた。
囲炉裏の部屋のうす暗い灯油ランプの下で僕らよりずっと年長の男たちがボソボソと話していた。どうやら寝ずに夕べから話しをしているようだった。 聞くともなく聞いているとそれは釣りの話ではなく、なんとも朝から聞くには耐えられないような強烈な猥談だった。そしてその話の中心にいたのが彼だった。 テラテラした赤い顔に体に絡み付くような関西弁。これがあの大作家の正体か・・・・・。 》

・面白い、そして今までこんなふうに開高健の事を書いた人はいなかった。誰一人として。

でもそれなのにどうしたことか僕はしだいに彼に引きつけられていく。なぜなら、それぐらい彼の博識と豊かな語彙は、それだけで魅力的で他の人を寄せ付けない説得力があった。それは彼の文章と同じくらいにひと言一言生き物のように、自立し、独立して勝手に動きだしていく。》

 
「釣りは芸術(アート)である。」
そんなことは彼しか言えない。彼だからこそ断言できるのだ。
「アートは反自然的な行為である。」
「であるからルアーは自然の分泌物から遠いデザインとカラーでなければならない。」
「つまり、ベイトから離れるほどその芸術性は高い」
「たとえばダーデビルの赤白スプーン。自然のエサには赤白は存在しない。」
「ルアー釣りは受動的なエサ釣りとは根本が違う。同じ場所で粘って釣るのはエサ釣りの発想である。ルアー釣りはだから能動的に積極的に魚のいる場所を探さなくてはならぬ」
「待って釣る釣り方は、それだけで反芸術である。つまりそれは思想が漁であって、誇りあるアマチュアのゲームフィッシャーのするべきことではない。」

だんだんと彼の言うことが僕の体にボディーブローのように効いてくる。じわじわと頭が染み込むように洗脳されていくのが自分でも判る。
ただでさえ相手は大作家。有名な小説家である。それだけで僕は彼に射竦められていた。そして彼の哲学と真理と叡智が、僕を釣り人としてだけでなく人としての人格までも決定的に変えていくことになった。学生生活をこのまま続けていてもいいのか・・・・・。 》


・則氏の記述も古い記憶を思い出して書かれているものであろうから、開高健の語った言葉もそのままではないだろう、ある程度言葉が足されたり引かれたりはしているだろう。それでもこの則氏の記述は非常に面白い、今までどこにも書かれてこなかった、語られてこなかった開高健の一面が熱を持って語られている。そして則氏本人の心の揺れも。

その日も朝から雨が降っていて、昼頃にはドシャ降りになった。さすがに釣りを続けることが出来ず、宿に戻って仲間と囲炉裏の前で密造のドブロクをやり始めた。ツマミは漬物や山菜、塩クジラ。相変わらずであるけれど言うことなしである。
仲間と盛り上がっていた。
その時、ひょっこり彼が顔を出した。
そのまま彼は僕の前に座り、一緒にドブロクを飲みはじめた。
その頃になると、この大作家の前で、苦手ではあったけれど、そんなに緊張しなくなっていた。

ドブロクがなくなった。
「ノリくん部屋に行って焼酎を持ってきてくれ」
僕は何の抵抗もなく彼の部屋へ行った。
彼の仕事部屋を初めて見た。
そこは万年床が敷いてあって座卓。資料や原稿用紙が散乱している。まさに絵に書いたような小説家の仕事部屋だった。
書き捨てられた原稿用紙には独特の丸っこい字で文章の断片が書いてある。それはいまでもはっきりと思い出すことができる。
「汚れたビデ・・・・・」「腐りかけた夕日・・・・・」
ああそうなのだ。この何の脈絡もないようなこの一言が彼によって命を与えられひとつひとつが別々に動き出すのだ。まさに開高節の原点を見た思いがした。

後で、村杉小屋のオヤジ佐藤さんが言った。
「ノリさん、後にも、先にも先生の部屋に入ったのはアンタ以外にいない」》



・銀山湖、村杉での暮らし、一行も書けなかった『夏の闇』の創作状況。これも今まで全く知られていない開高健の一面だ。

・日記は7/24付でアップされていた。そして一週間後の7/30。 日本の釣りの草創期を形作った則氏が亡くなった。享年65歳。

・もし、則氏が生きていて、もしもっと開高健の事を書いていたら、きっと今まで知り得なかった新しい開高健の姿を知ることができたかもしれない。それはまた、あまり開高健をプライベートなことで裸にしてほしくはないという気持ちには反するのだけれど、もし則氏がもっと開高健の事を書いていたら、文学者や著名人という目ではなく、もっと開高健に近い目線で、もっと直接的な目線で書かれた、もっと真実の開高健を知ることが出来たかもしれない。そう思うのだ。

則氏のエッセイに、ちょっと気になるところがあった。
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黒又ダムの放水口とはその名の通り、只見ダムから放水される水の黒又ダムへの流れ込みである。だからその場所は只見ダム直下にあって、車両通行止めの道をその場所まで歩いて下っていかなければならない。一時間と言ったところだろうか。
放水口に着くと、放水が始まるのを待つ。放水の時間はあらかじめ調べてあって、だからはやる気持を抑えながら待つ。
すると、放水口の奥から音がしてくる。その音がだんだん大音響になって近づいてくる。放水口から白い霧が出てきた。

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黒又ダムは銀山平、奥只見からは田子倉湖を越えてさらに先、山も相当に越えるし、場所としては奥只見と一緒には考えられない所である。 しかも、只見ダムから放水される水の流れ込みと書いてある。 (黒又ダムは黒又川を堰き止めたダム)
この記述はたぶん、いや、明らかに大鳥ダムを黒又ダムと誤記しているのではないだろうか? 只見ダムからの流れだしは大鳥ダムだし、釣りをしている状況を読んでもあの大鳥ダム放水口の様子ではないかと思われる。奥只見の事を書いていて、黒又の話というのも変だ。

奥只見に数多く通った氏がこんな簡単な間違いをするとも思えない。このエッセイがアップされた一週間後に則氏は無くなった。死因は脳出血ということだ。 ひょっとしたらもうこのエッセイを書いていたときには・・・・・。 そんなことも思ってしまう。

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2010年9月 3日 (金)

開高健 大阪の実家が売却・・・解体・・・

■開高さんの杉並や茅ケ崎の家のことは、現在開高健記念館が管理運営していることもありあれこれと知ることは出来たが、以前から大阪の生まれ故郷の実家はどうなっているのだろうと思っていた。

■氏のこれまでの著作やエッセイなどから想像するとすごいおんぼろの長屋みたいなところになんだろうなぁと思っていた。

■開高健の生前の幅広い交友関係者のことは色々と話題にもなるし、ネット上でもあれこれ読むことが出来るし、開高健の名前を使って知名度をあげようだとか、自分を知らしめようなんてものもチラホラある。しかし、今まで開高健の母親のことやら妹さんのことなどに関する記述というのは殆ど読んだことも、見た事もない。二十歳そこそこで詩人を孕ませ父親の居ない一家の大黒柱だったのに母も妹も家において飛び出していかざるを得なかった若き日の開高健、その後ろ姿を見つめていた開高健の母親と妹、それはどんな状況だったのだろう?  母と妹はどんなことを思っていたのだろう?

■芥川賞を受賞し、世界を飛び回って有名人になった開高健だが、その頃母親と妹はどんな状況だったのだろう?  どんなことを思っていたのだろう? この辺のことは本やネットで探しても分からない。開高健も自身が幼かった頃の思い出や母親や妹のことについては殆ど語っていない、書いていない。小説の一部で結婚以前の苦しかった生活のことなどを書いてはいるが、結婚して家を飛び出してしまって以降の実家や母親、妹のことは貝のように口を閉ざし全く自身から語ってはいない。

■肉親の事を何も語らない開高健。当時の知人や関係者しか知らない開高健と母親、妹との確執がそこにはあったのではなかろうか。下世話な勘ぐりをすれば、生活が苦しかったというのに二十歳そこそこで文学仲間の牧羊子を孕ませ、母親と共に家に押し掛けてきた牧羊子に認知をせまられ、もうどうにもならず家を飛び出し牧と暮らし始めた息子開高健に対し、開高健の母親は戻ってきてくれと叫び、そして出ていった開高健を罵り、恨み、二度と会いに来るな、勘当だ、親子の縁は切った・・・と叫んだのかもしれない。(これは勝手な想像だけれど)

■人気作家としてそこそこに裕福になった開高健は実家への仕送りなどは続けていたのかもしれない。が、家族として実家に戻ることがあったのだろうか? 拒まれていたのか、戻らないと決めていたのか、戻りたくとも出来なかったのか、それとも時折戻っていたのか? それは知りえないけれど。

■生前、いくどとなく大阪に行くこともあったのに、谷沢永一氏の自宅で食事をしたり、おでん屋でさえずりを食べたことは書いていても、実家に戻ったり、母や妹と会ったということは何一つとして書いていない。

■開高健が母や妹の事を書いたものは微々たるものしかない。開高健に近しい人も氏の母や妹に関して記述しているものは殆ど無い。唯一、開高健が母親の事を語っていたとされる記述は菊谷匡氏の『開高健が喰った』で茅ケ崎のすし善に関する章に少しだけある。

「(開高健は) あるとき同人雑誌で詩人の女性と知り合って「できちゃった婚」をするに至り、そのまま何十年と家族と離れてしまったままだった。(菊谷氏が開高健と)つき合っていた間も、開高さんから家族の話を聞くことは稀だったから、「すし善」の巻物が「母親の味がする」と聞いて、開高さんが抱いていた家族に対する切ない思いをうかがい知ったような気がするのだ」

菊谷氏のこの文から想像するに、開高健は母の元に帰りたかったのではなかろうか、だが何か伺い知ることのできない肉親との隔絶によって、母親や妹の元に帰れなかったのではなかろうか・・・そんな感じがする。

■開高健の母親はもう年齢から考えれば無くなっているであろう。妹さんはまだ生きているとは思うのだが、開高健が八面六臂の活躍をしている頃から、他界して20数年経ついままで一度としてメディアに話題が出たことはないと思う。語られることのない開高健の心の闇がここに有るような気がする。

■以前このブログでも取り上げた「ごぞんじ 開高健」の中で阿部満春氏がこんなことを語っている。

「最近どうもいろんな人があたかも裸にしようというような感じで、研究というかそういう形で次々開高さんの評論や評伝などに取り組んでいますよね。私としてはあんまりプライベートなことで裸にしてほしくない。その作品で開高さんを理解してあげるべきだと思うことがこの頃よくあるんです。」と……

そうなのかもしれない。それこそ「ごぞんじ 開高健」で故人に親しかった人が色々と昔話、裏話を語っているし、ちょくちょく発売される開高健関連本でも同じように昔話、裏話が語られている。それでも開高健の母や妹に関して語っているものは無い。それを開高健は亡くなるまで自分の中に飲み込み、閉じ込めていた。何故かは分かりえないけれど、それはきっと踏み込んだりしてはいけない領域なのではと思う。

■その開高健の生家が売却され、取り壊されるという記事がでていた。
(2010.9.1  産経ニュースから抜粋引用)Photo_2

・芥川賞を受賞した「裸の王様」などの作品で知られる作家、開高健さん(昭和5〜平成元年)が、青少年時代を過ごした大阪市東住吉区駒川の家が近く、不動産 会社に売却される。地元では保存を願う声もあったが、資金面などから断念、解体される可能性が高いという。売却を前に1日、旧友や地域住民ら約50人が集 まり、大阪が生んだ文豪をしのんだ。
・家は約80年前に建てられた4軒長屋のうちの1軒で木造2階建て。開高さんはこの家に、7歳から22歳まで住み、旧制中学入学早々、父親を亡くしてからは母親、妹、叔母らと一緒に生活していたという。
・開高さんは当時、周辺に広がっていた水田や草むらで遊んだ思い出や、家族でふかし イモを奪い合った貧しい暮らしなどを後の著作「破れた繭(まゆ)」「花終る闇」などに描写。
・この家や周辺での経験が、開高文学の原点になったといわれている。
2◎開高健さんが育った家で、当時を懐かしむ旧友ら。
・家は、開高さんが関東に活動拠点を移した後も親類が所有していたが、3年ほど前から住む人がいなくなり、老朽化が進行。地元住民らから記念館や飲食店として活用、保存する案もあがったが、実現にはいたらなかった。
・この日、親類が「最後の別れに」と家を開放。同級生や地元住民らが当時の思い出話に花を咲かせたり、写真に収めたりして開高さんをしのんだ。
・旧制中・高時代の同級生で、学校帰りによく遊びに来ていたという金戸述さん(79)は「当時のまんまや。ここで、独学でフランス語を覚えた開高からフラン スの小説や詩の話を熱心に聞かされた」。地元に住む吉村直樹さん(64)も「偉大な作家がここで育ったことを後世に知ってもらうためにも残したかった」と 残念そうに話していた。

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■今まで大阪の生家の様子などは殆ど知らなかったけれど、思ったより立派で広い感じがする。

■子供が出来た牧羊子とその母親がこの家の玄関に押し掛け、二階に居た学生服の開高健が驚いて駆け降りてきたら認知を迫られたその場所。敗戦直後、この家で家族は食うや食わずの生活をしていた。写真を見ているとその様子が朧げに目の中に浮かんでくる。

■家を飛び出してから亡くなるまでの36年間に、開高健はこの家に戻ったことは有るのだろうか? 戻りたかったのに、戻らなかった戻れなかったのだろうか、家の解体と共にこの場所に残された故人の望郷の思いも消えてしまうのだろう。


追記:YOMIURI ONLINに別の記事が出ていた(引用)

・開高健「青春の家」解体へ、6畳間で初期作執筆…大阪・東住吉
同級生ら名残惜しむ
・開高健が22歳ごろまで過ごした木造住宅(1日、大阪市東住吉区で)=大西健次撮影
・芥川賞作家の開高健(1930~89年)が青春期を過ごし、初期の作品を執筆した大阪市東住吉区の住宅が今月にも取り壊されることになり、1日、同級生らが集まって、在りし日の思い出を語り合った。
・昭和初期に建てられた「大阪長屋」と呼ばれる2階建ての木造家屋で、大阪・天王寺で生まれた開高は、家族と一緒に7歳から住み始め、結婚して別宅に移るまで、戦中戦後の約15年間を過ごした。
・初期作品を執筆した2階の6畳間(1日、大阪市東住吉区で)=大西健次撮影
・1階3部屋、2階2部屋に6人が暮らし、2階の6畳の和室が居室だった。
妹の野口順子さん(75)によると、「兄が旧制中学の頃、父が亡くなり、家計を支えるためにアルバイトに忙しくしていたが、友人から借り集めた西洋文学の本を万年床の周りに積み上げて、片っ端から読破していた」という。
・2年前まで暮らしていた親族が亡くなったため取り壊しが決まり、この日は約20人が名残を惜しんだ。天王寺中学時代の同級生、作花(さっか)済夫さん(79)は「日曜になると押しかけて文学や政治、恋愛など何でも語り合った。当時から『よっしゃ、よっしゃ』が口癖。博覧強記で、1人でしゃべっていた」と懐かしんだ。
・開高は大阪市立大時代、文芸部で小説の執筆を始め、同人誌でも活動し、この部屋で初期の作品群のいくつかを執筆した。
・25歳で東京に移り、小説や紀行、戦場ルポなど幅広いジャンルで傑作を残した。空襲におびえ、窮乏を極めた原体験は代表作「輝ける闇」に生かされた。晩年の自伝的小説「破れた繭(まゆ) 耳の物語」では終戦直後の食糧難の様子をつづった。
・生誕80年の今年は復刊が相次ぎ、各地で回顧展が開かれるなど、再評価の機運が高まっている。地元の街づくりボランティア、吉村直樹さん(64)は、「戦後文学を代表する大阪生まれの作家が精神の骨格を形成したモニュメント的な建物。それが失われるのは、とても残念だ」と話していた。
(2010年9月2日  読売新聞)

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・妹さんの名前を初めて知った。もう開高健を知る肉親は一人しかいないだろう。

・兄、開高健の事を文字として残して欲しいと思うのだけれど・・・。それは無いだろうか・・・・。

☆蛍と町家と開高健 2010/7/3(ラジオ大阪のページ)

http://hito-machi.org/ppt/2010/100703/index.html

開高健旧宅模型を作られているひとも居ると知り驚き。

 


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2010年7月21日 (水)

ipadを買わない理由(2) ネットに吸い込まれる自分の時間の奪還

ipad関連で日経ビジネスオンラインやあちこちのブログ、そして宮崎駿監督のインタビューからあれこれ抜粋。
後で整理。

分からないことがあるとすぐググル。

iPadを手に入れた人間は、会話の最中でちょっと知らない言葉に出会うと、いきなりググのではないか?いや、スマートフォン持ちの中にもそういうタイプの人間は既にいくらもいる。

昔は分からないことがあったら直ぐ辞書を引けとおしえられていた。

購入して、持ち歩いて、見せびらかして、おもちゃを弄っているだけ。

「誰でも手に入るものはたいしたものではない」

あの種の先例のないツールは、日常に退屈している人間を誘引する。

あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい」

「世界に対して自分で出かけていって想像力を注ぎこむことをしないで、上前だけをはねる道具として i ナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。」

新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。

新しい携帯をもっていることが最先端の人間?

iPadも、ちょっと見ると、世界を広げるツールであるようかに見える。が、実際には、あれを持ち歩いている人間は、ある部分では、自分の内面に引きこもるようになるはずだ。

電車に乗ってほんの10数分の移動でも携帯を取り出し、なんかないかなぁ?とニュースやSNSをチェックする・・・・その時間に小説の1ページでも読んだほうがよかないか?

記憶について、曖昧なままにしておくことが苦手になってきていて、そういう小さな疑問は、その都度ウェブにアクセスして調べをつけずにおれないカラダになっている。

iPadを入手した人間は、自分でも気づかないうちに、何らかの習慣や選択肢を捨てることになる。必ずそうなる。

もっともありそうなのは「何もしない時間」が失われることだ。電車の窓から外の景色を眺めながらぼんやりと考えを遊ばせる時間。手持ちぶさたな時間が、根こそぎiPadに吸収される。

iPadであなたはもっと馬鹿になる

では、私たちがしていないことは? それは「考える」こと。情報を処理してはいるが、考えてはいない。2つは別物だ。

要はデジタルツールを触りながら、ダラダラしているだけ。リンクをクリックしては、自己顕示欲の強い愚か者や評論家、広報やマーケティングの担当者らが垂れ流す無意味なゴミの激流をかき分けている。

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2010年7月20日 (火)

iPadを買わない理由(1) ネットにしがみついた生活の改善

iPadを買わない理由』
・ジョブスのipodに関する発表を聞いたときは「凄いな、こんなものを作ってしまうのか、もっと気軽に使えるノートPCが欲しいと思っていたけれど、こいつかはいいかも?」
と思った。

《もっと気軽に使えるノートPC》に自分が求めていたものは
1) 気軽に持ち運べる軽さ
2) 気兼ねなく長時間使えるバッテリー性能
3) ネットアクセスとメール送受信。
4) テキスト、表計算、画像、動画の基本的なドキュメント形式が読み書き出来ること。

改めて考えてみると、正直言ってこの程度の事だった。この位の事ができれば後は殆ど必要ない。重要な仕事は自宅や会社のPCで作業をしているのだし、外出先で求められるのは「メール、資料の確認と微々たる修正」程度なのだ。
バッテリーの性能という物理的な問題を別にすれば、自分が外出先で必要とされるPC機能は今のネットPCで十分だし、敢えてiPadにする必要は全く無い。
あるとすれば新しいものに飛びつきたいという好奇心だけだろう。

電子書籍として使うというのも今の自分には必要ないことだった。
常に辞書クラスの重い本を持ち歩かなければならないような特殊な仕事の人ならipad一つに数冊の分厚い本を収めていつでもアクセスできるようにするというのは有効かもしれないけれど。

学術論文を沢山持ち歩くのも大変という人にも、iPadの中に何百枚の論文を収納して、どこでも読めるようにするというのは便利かもしれない。それは特殊な仕事の人だ。
(茂木健一郎は一度に数冊の重い本を持ち歩けるからキンドルは欠かせないらしい)

だた、一般的な仕事のレベルにおいてそんな分厚い本を持ち歩く必然性はないし、かばんの中に文庫本2,3冊入っていれば空いた時間の読書に不満ない。

だいいち、発売されたiPadは気軽に本のようにして読むには明らかに重すぎる。

寝転がって頭の上にかざして読むなんてあの重さじゃ無理だ。

ということで。
ゲームをするわけでもないし、色々考えた末、iPadの購入はやめた。
よっぽど特殊な必要性がない限り、iPadで今の生活や仕事が大きく変わるほどのものはない。結局は新しいもの好きの大きな大人のおもちゃでしかないだろうと思った。

だが、周りには着実にiPadユーザーが増えつつある。
困ったことにそういう人はちょっと時間があるとiPadを取り出し、さらさらと指でなぞって、これはこうなんだよ、ほら凄いだろうとipadの良さを私に宣伝するセールスマン化していることだ。

なんかこれっておかしくない? なんでそんなにあなたはiPadを勧めるの? 良さを宣伝するの?
さも自分が最先端の技術を持っているかのように、最先端の場所にいるかのように。
あなたは今iPadを何に使っているの?
時間が空いたときにネットにアクセス? ツイッターの投稿? デジカメ写真のアルバム? 音楽ファイルの倉庫?  仕事には何に使っているの? メールチェック? 最新情報の確認? ニュースサイトの閲覧? それって携帯やiPhoneで充分できることだよね。

なんだかiPadがいいよと見せてくる知り合いに囲まれだしたら、なんであなたがそんなにiPadの宣伝をしてるの?  あなたはアップルの宣伝マン? ソフトバンクの営業? って思えてきた。

自分がイイと思ったものを知り合いに勧めるというのは変な行動ではない。おいしい店、面白かった本、面白かった映画について人は人に勧める。話題とする。

でもなんだかiPadを宣伝する人たちを見ていると「あなた達はジョブスに催眠術に掛けられているんじゃないの?  洗脳されてるんじゃないの? 」って思えるのだ。

たぶんあなた達の日常生活や仕事において、iPadはどうしても必要なものでもなく、何かを革新的に変えるようなものでも無いはず。
あなたたちはジョブスのプレゼンと宣伝にまんまと乗せられて、さして必要でもなく、今の状況を革新するものでもない、言って見れば大人が遊ぶオモチャを、未来への最先端のテクノロジー、革命の入り口と信じ込まされて買わされているんじゃないの?

ジョブスとメディアに煽られ、要りもしない四角い機械を購入し、持っていることを正当化するために無理やり使い道を探しているんじゃないの? こんなにイイよと周りに説明して歩いているんじゃないの?

実際、iPadにしろiPhoneにしろ、飲み屋で見せびらかしたり、雑談のネタに使っている人ってかなり多いだろう。

あれこれ色々使ってみたけど、結局はゲームアプリを試し、写真を取り込み、音楽を取り込み、なにもそれまでの生活や仕事を改善していないんじゃないの? スケジュールだってメモ帳に欠いておいても大丈夫な位の忙しさなんじゃない?

ちょっと時間が空くと直ぐに大人のおもちゃをいじってちょっとネットを見たり、メールチェックしたり。そんなことして自分の時間を無駄にiPhoneやiPad、いやネットの世界に吸収され、なんら創造的なことをしていないんじゃないの?

自分も含めてだけれど、なんだかそんな気がするのだな、今の世の中って。
電車の中でDSやPSPを弄ってるひと、ゲームをしている人をバカにする人がいるけど、携帯電話やiPadを弄っているのもまったく同じことなんじゃない? 生産性ゼロで自分の時間を企業が仕組んだプログラムに吸収されていっている。

電車の中で、家で、どこででも、ちょっと空いた時間があると携帯をチェックするのは止めようと決めた。SNSやツイッターにアクセスしてなにか新しいこと書き込まれていないかな? なんてチェックしたり、ニュースサイトを頻繁にチェックしたりして最新の情報を仕入れることをするよりも、1分でも時間があいたら小説を2,3行でもいいから読もう。端末の画面を見るくらいなら窓の外を見て、色んなことを考えよう。雑多に溢れる表面的な情報を見て回るよりも、もっと別の何かを考えることに自分の頭を使おう。

今のネットにしがみついたような行動パターンを少しずつ変えていこうと決めた!

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2010年7月11日 (日)

ヤフオクに出ていた開高健 直筆と称する岩魚の魚拓。

・今年3月頃ヤフーオークションに「開高健 直筆魚拓」として、岩魚の魚拓が出品されていた。

開高健 直筆魚拓】
■作家・開高健が昭和45年に銀山湖で自ら釣り上げた岩魚。 友人に寄贈するための直筆文章入り。「真理は低音で語られる」 大きさ:横90センチ、縦47センチ(額のぞく) ※シミあり。

Photo_2

Photo_3

・質問もあった。
(質問1)真贋の保証はございますでしょうか?氏はキャッチ&リリースの提唱者で魚拓を残す事は考えにくいです。また「署名」の筆跡が見慣れている署名と明らかに違うように見えます。本物の保証を頂ければ是非とも欲しいので宜しくお願い致します。
(回答)
3月 10日 5時 52分
開高さんが、ご自分で私の家に持ってきてくれたので、間違いありません。私の父親が、開高健氏の釣り仲間です。ご本人が、よく遊びにきてました。朝日新聞社刊の「フィッシュオン」という写真集に、私の父も「桐生の燒竿」という異名で紹介されています。魚拓を作成したのは、奥只見・銀山湖の「村杉小屋」、現在は「銀山平温泉村杉」 先代のご主人と、開高さん、私の父が、この魚拓を釣り上げた時の写真が残っているはずです。

Photo

・質問にあるように、この魚拓の開高健という文字は、特徴ある開高さんの筆跡とは全然違うし「真理は低音で語られる」という言葉も開高語録で読んだり聞いたりしたことがない。

・「フィッシュオン」という写真集に、私の父も「桐生の燒竿」という異名で紹介されています。・・・ということだけど「フィッシュオン」にそんな記述ないし。
・出品者が書いていることが開高ファンからすれば「ん? それって何?」と思うようなことばかり。詳しく開高健のことを知らなければそうなのかなって思うかもしれないけれど。
・しかも出品者kasugaydcは新規ID、これって怪しいねと話していたが、結局落札されず、再出品もまた落札されれず終了。だって開始価格30万で即決50万の設定していて、怪しすぎるものだったし。

・その後村杉さんのブログを読んでいたら、この魚拓に関しての記載があった。(下記参照)
・この出品者が騙そうとしていたのか、それともこの出品者が騙されたのかわからないけれど、開高さんがこの魚を釣り上げ魚拓を取って、この出品者の家に持ってきたというのはやはりウソのようである。

・生誕80年の年にこんなものが出てくるというのもなんだけど、開高健のファンが騙されなかったことが良かったなと思う次第。

●村杉さんのブログより。( 勝手に転載させていただきますがお許しを)

作家 開高健氏取材のご縁で時々コメントくださる、ノンフィクション作家の
滝田誠一郎さんからのコメントで「ヤフー・オークションに開高さんの魚拓が
出品されています。・・・」というもの。

さっそくおじいちゃん(佐藤進)に見てもらいましたが、この魚拓そのものは
おじいちゃんの取った物に間違いないようですが、むしろサイン入りの
書き込みの文字が開高先生の字と違うと思うし、開高先生はこんな
書き込みはしないだろう」という意見でした。

夫が戻ってきたので改めてヤフー・オークションの魚拓を開いてみたのですが
先ほど気づかなかった出展者のコメントに「作家・開高健が昭和45年に銀山湖で自ら釣り上げた岩魚」とあり、改めて家族の確認のもと言える事は

開高先生はキャッチ&リリースを普及させた方であるとおりに、釣った魚は全てリリースしているので、魚拓は一切残していませんし9月7日には帰った後ですでに銀山湖にいなかったと思います。
因みに60㎝オーバーの銀山湖での釣果は無いと記憶しています。

という事で、魚拓は本物ですが、開高健氏のものでは無いというのが
我家の意見ですが、出品者にいきさつを聞いてみないとわかりませんね・・・
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ところで少し前にヤフーオークションに開高健氏の魚拓が出品されているが
本物だろうか?というコメントを頂いていましたが、引き続き出品者への質問なるコメントがあり、その返信を読んだ感想を求められたのでひと時両親とコメントを見ながら、話がはずみました。

ここには出品者が我家の常連様の息子さんであると言う内容でしたが我家はご家族皆様と交友があり、息子さんもよく存じ上げています。

ただこの出品者が本当に息子さんご本人であるかどうかは自己紹介が記入なしの為確認できませんでした。

そして前にも書いたことですが、この魚拓そのものは村杉小屋主人がとった物ですが、なぜか釣り人の名前が記入されていないのです。

義父が言うには「たまには書きそびれたこともあるだろう」という事ですが開高健氏はこの魚拓をとった9月7日には既に帰宅した後で、銀山には滞在していかったと言う事実と、開高先生はキャッチアンドリリースを銀山湖では実践していた為、開高先生自身の魚拓を取っていないという事です。

更に回答コメントの内容も、義父から見れば事実らしからぬ事も感じられる
とのことですが、もし出品者が本当に息子さんであるならば、お父様も亡くなって久しい事ですし、釣り人特有のチョット大きく膨らんだ話を本当だと思い込んでいることもありうるわけですね。

そしてもう一つの可能性は、全く違う方がこの息子さんに成りすましている場合何かの事情で手に入れた魚拓に、故意に書き込みをして出品している事も無いとは言い切れませんね・・

そんな訳で、我家の意見は前回同様、魚拓は村杉小屋主人が取ったものですが釣り人は全く違う方という事になります。

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2010年7月 9日 (金)

埋まりゆく 伊豆 松川湖の未来

・夏の減水された松川湖の様子を見た。

・ログ下はもう赤土の土砂が堆積してみるも無残な状態。満水でも2mも深さは無い状態になっているだろう。

・泥で全部うまったダムの底は都市近郊の管理釣り場のようだ。ここでは水生昆虫も生きては行けまい。

・落合川のプールは完全に埋まってしまった。もう魚が上ってくるような場所ではない。いずれここも平らな更地のようになってしまうのではないだろうか?

・1989年に完成し、完成当初は釣り禁止だったものがアマゴやニジマスを放流し、ルアー、フライの釣り場として解放されたのは何時頃だっただろう?  1998年頃だったかな? アングリングでは大アマゴが釣れる場所として紹介されたりしていた。

・自分が松川湖に初めて行ったのは2003年5月11日、初めて行った時は「なんて美しいんだろう、なんて水がキレイなんだろう。なんて魚が元気なんだろう」と感激した。

・梅雨時の朝早く松川のインレットS字に向かい、眩しいくらいに鮮やかな緑の中でドライで20数匹のニジマスを釣った時は本当に楽しかった。

・日曜日は夜明け前の2時には家を出て、2時間掛けて松川湖に到着し、静かに落合川のプールに下りていって、シーンとしたプールにロイヤル・コーチマンをそっとキャストすると、ドデかい魚がバクっと飛びついて、釣り上げたのは54センチの堂々たるニジマスだった。

・ウインストン・シェラ#2がしっかり仕事をしてくれた。

・それからも春と秋は松川湖ばかりに通っていた。

・あれからもう7年。目立って土砂が堆積し始めたのは2007年頃からかもしれない。上流の土砂崩れ、それ以前の伐採なども大きく影響しているのだろう。

・少なくとも2003年5月から2008年位までの5年間はたっぷり松川湖でフライとルアーの釣りを楽しませてもらった。

・だから松川湖には感謝しているし、思い出の湖なのだけれど、今の状況をみていると、釣りのフィールドとしての寿命はもうあまり長くはないだろうって思う。

・既にダムの完成から20年、多くの堆積物でダムが埋まってくるのは仕方ないことなのだが、2007年後半頃から雨が降る度にログしたは土砂で埋まり、この先どうなるのだろうと危惧していた。

・一時期掘削工事が行われたり、今年もまた行われるという話もあるけれど、それ以上に土砂の流入は多い。ひと雨ふれば掘った場所がすぐに埋まって元通りになってしまう。

・このままなら、後2,3年後には松川湖は半分位まで土砂で埋まってしまうのではないだろうか? そして5年後には浅く水がたまっているだけの場所になってしまうかもしれない。

・昔はここでおっきなニジマスやアマゴが沢山釣れたんだよ!なんて思い出話をすることになるのかもしれない。

・減水した松川湖の状況を見るたび、いい時代にここで釣りが出来たんだからよかったよなぁと思いつつ、埋もれていくフィールドに悲しみが込み上げてきて仕方がない・・・。

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2010年6月25日 (金)

生誕80年「開高健の世界」展 於:神奈川近代文学館

Kaikomainimage 『6月24日(木)』
・6月12日から横浜石川町の神奈川近代文学館で開催されていた"生誕80年「開高健の世界」展をようやく見に行くことが出来た。
・開高健記念会より6月11日の内覧会の案内は頂いていて行きたかったのだが都合を合わせることが出来ず二週間遅れでようやく見に行くこととなった。

・暑い中、石川町の駅からテクテク歩いて行くのは結構しんどかった。外人墓地だとか、みなとが見える丘公園だとか、この辺に来るのは本当に久しぶり。本来ここは車でデートで来る場所なんだろうと思うけれど・・・(笑)

・石川町のブランドショップが並ぶ商店街を抜けて、最後の坂を上るのはほんとはぁぁ、しんどいという感じ。ようやく文学館に辿り着いたとおもったら、展示場はさらに外の階段をぐるっと上った場所・・・・汗かきました。

・展示場入り口ではニュースステーションで放送されたベトナムから開高健が電話してきたときの音声の番組を大型モニターで流していた。さらに展示会場にはいると、正直これほどまでとは思っていなかった規模で沢山の展示がされている。うわ、これはヘビーだなと少々気が引ける。

・今まで茅ケ崎の開高健記念館でも見たことの無かったような展示物が沢山ある。

・正直なところ自分は自分はこういう展示を見るのが少し苦手。故人の実際の臭いや体温、声まで聞こえてきそうなものを見ていると胸が詰まってきてしまう。展示物から感じ取れる思い、情報もあまりに多すぎて自分の心の中に収納しきれなくなってしまう。こういう展示を見ているともうあっぷあっぷな溺れそうなきもちになってしまいちょっとダメなのだ。

・今回の展示もあまりに凄い見たことのないものが沢山で、もう入ってくる情報と自分の感情の高まりに息苦しくなってしまった。

・これはもう凄すぎてダメだ。少し見て直ぐそう思ったので、展示物をしっかり見るというよりも、実物を目に焼き付けるだけに留め、その場であれこれ考えることは自分の中で停止させた。会場で販売しているパンフレットに殆どの展示物の写真と開設が掲載されいるようなので、今回はぐるっと一回まわり、もう一周見て会場を出た。1時間もいなかったかな? 本当に、こういう故人の展示会とかはダメなんだなぁ。とくにそれが自分が好きな作者、画家などの展示会だと感情の高まりが破裂しそうになってしまうのだ。

・外にでて息をついて「どこか涼しくて落ち着いた場所でパンフレットを見て読んでこの展示会を再確認しよう」と思った。そうなのだ、落ち着いて写真や文章で読んだり見たりしないと、実物を見ていると自分の中で見ているものを咀嚼出来なくなるのだ。冷静に展示物を考えられなくなるのだ。だから、展示はさらっと、本当に自分の目で見たのだ!という為に見、そこにあるものの検証や判断、そこから受ける感動はパンフレットなどでおこなわないとダメなのだ。まあそれくらい開高健展の様々な展示物から発せられるエネルギー、熱が強い、強すぎるということなのだろうけれど。

・その熱に、ある意味毒気に中たらない、自分がやられてしまう前に、会場を出て自分の冷静さを保つ。その位今回の展示は強烈な放射能を発していたと思う。

・展示物の中でも、寿屋に就職する際に提出した手書きの履歴書だとか、従軍記者証、釣りのライセンスとそこに貼られた顏写真、夫人あてのメモメッセージ(これは前に書いた"いやらしいイラスト"の便せんが使われていた)、司馬遼太郎の弔辞、直筆の封筒や手紙、夏の闇特捜本の”私”の手書き版、がなどが強烈な放射能を発していた。まるで今もそこに開高健がいるかのように文字から熱と意志と思想が放射能のようになって自分に照射されているかのごとくであった。

・この展示館は何度も来ることは出来ない。そう思った。

・家に帰ってきてから購入したパンフレットをぴらぴらと捲りながら見ている。このパンフレットからも相当に強烈な放射能が発せられている。でも自分の部屋で、ベッドに寝転がりって見て読んでいると何とか堪えられる。

・それでも、少し読んではページを開いたままパンフレットを胸の上に伏せ、目をつぶってじっと考え、ぐっと飲み込み、落ち着いたらまたパンフレットを読み出すという風にゆっくり、ゆっくりでないと前に進めない。

・開高健の発する放射能は自分にとって、あまりに強烈すぎて、十分に警戒しながらでないと自分自信がやられてしまいそうである。

・想像を遙かに超える強烈な展示だった・・・・深く吐息。

Imgp0788_2 

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2010年6月 9日 (水)

開高さん家の衣紋掛け・・・・帽子掛けかな?

・あちこち旅したり、いろんな街をぶらついては、面白そうな店に入って、なにかいいものないかな?と物色したりするのだが・・・・ある時、某所で魚の形をした衣紋掛けを見つけた。

・釣り好きなら家の中のちょっとした所に、ルアーや魚に関するようなものを使ってちょっと小粋に飾ってみたいと思うものだ。普通のフック、衣紋掛けなら興味を引くことはないんだけれど、それが魚の形(これはパイクかな?)をしていたので、おお!いいねこれ!家で使おうかな?と思って手に取った。

Dsc02507_2 ・手にしたものをしげしげと見てみると「ん? なんだかどこかで見たことあるなこれ」と頭のなかにもやもやっとしたものが。どこだっただろう? どこでみたんだろうとしばらく考えてようやく思い出した「あ、茅ヶ崎の開高健記念館の開高さんの部屋に通じる廊下の所に付いていた衣紋掛けと同じものじゃないだろうか?」と! 

・開高健記念館に行ってみたら、同じパイクのフックが廊下のドアのところに付いていた。おお、これは凄いめっけもんだぁ!と喜んだ。

・その後、高橋昇さんが出した『開高健 男がいた』という本をぴらぴらと捲っていたら、記念館のそのパイクのフックの写真が後ろの方に載っていた。

Dsc02502_2 ・そうそう、これだなって思って、自分が見つけたものと写真を比べてみたら、鱗の模様だとか、鰓の部分とかがちょっと写真とは違っていた。でも、多分これは同じ鋳型から作られたものなんじゃないかな? 一つの鋳型に何個もこれと同じ形が並んでいて、同じ鋳型から同時に作られたものの一つなんじゃないかと思う。だいたいの形状は同じなんだから。

・そっくりそのまま同じものではなかったけれど、開高さんは生前、このパイクの衣紋掛けにを自分の家のドアに取り付けて、家に帰ってくるとあのバーバリーのコートだとか、おしゃれな帽子なんかこれにを掛けていたんだろうなって思ってしげしげと見ている。

・たぶんこれは開高さんの家にあるものと兄弟だろうなぁって思って、在りし日の大兄をしのんで自分も家のドアにこれを取り付けて帽子を掛けて悦に入ろうかな・・・・・。

なんてね。

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2010年5月23日 (日)

開高健愛用の便箋

・開高さんと懇意だったある編集者の方が書いた文にこういうのがあった。
「晩年の開高さんはちょっと奇妙な便箋を愛用していた。その便箋にはいわゆる四十八手ではないけれど、便箋の下の方にイラストが書いてあって、それが男と女が絡み合い性交をしているシーンが幾つも並んでいるというものだった」
「その便箋がなくなりそうになると、開高さんにコピーを頼まれて、あらたにそのいかがわしいイラストが描かれた便箋を沢山印刷して開高さんに届けた。開高さんはその束から自分の欲しいだけを取り出して、あとは君が使いたまえといってよこした」
「開高さんはその性交シーンのイラストを見ながら”ほとんどの体位はやったけど、こいつだけはやったことがないな、どれかわかるか?”と聞いた。開高さんは”これや”とイラストの一つを指差して”これだけはやったことがないんや”と言った」

確かこんなことが書かれていたと記憶している。

・去年の7月に「特別紅茶会 開高健の代表作『夏の闇』の翻訳秘話を語る」に参加した時、セシリア・瀬川・シーグルさんがお話の中で「開高さんから届いた手紙の下に非常にいやらしいイラストが書かれていた。女性に対してこんなイラストの入った便箋で手紙を出すなんてなんて失礼なのか、開高さんは私を女性として思っていないのではないかと思った」という話をされていて、その当時を思い出しながら話す瀬川さんの逸話が面白くて、会場にいた人はみんなクスクスと笑っていた。

・そんな、開高さんが使っていた“非常にいやらしい便箋”ってどんなものなのだろう?と興味があったし、見てみたいなとも思っていた。

・何気なく開高さんを特集した古い雑誌をぴらぴらとめくりながらベッドで見たり読んだりしていたら・・・・あ!と思わず息を飲んだ。

・この雑誌も何度となく読み返してはいるのだけれど、今までまるで気がつかなかった。あるページにある人のエッセイとともに、その便箋が小さく写真で載っていたのだ。

・これがあの便箋か!と思わず目を凝らした。

・たしかにその便箋の下にはもつれ合う男女、さまざまな体位で結合する男女がずらりとイラストで書かれていた。開高さんが「これだけはやったことがない」というプレイも、見てすぐわかった。

・たしかに、これを使って女性に手紙を送ったら、送られた方はびっくりするだろうし、赤面してなんて失礼な人だって思うかも。女性でなくても普通にこの便箋で手紙を送られたらちょっと冗談が過ぎるんじゃないの?と思われるかもしれない。でもそれを許されたのも開高さんだからだったからか。

・しげしげとその便箋のイラストを見ながら、晩年の開高さんのことを思い描いたりしている。

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2010年5月11日 (火)

ボブ・マーリーの命日

・車の中でFMを掛けたら、めったに掛かることのないボブ・マーリーの曲が流れてきた。

・ノー・ウーマン・ノー・クライやレデンプション・ソングなんて普通FMじゃ掛からないからびっりした。

・今日はボブ・マーリーの命日だった。

・1981年5月 11日 脳腫瘍で絶命。36歳・・・若すぎるよね。偉大なるレゲェ・ミュージシャンとして名を歴史に残したけど、たった36年の命。もっともっと生きたかっただろうね。もっともっといろんなことをしたかっただろうね。

・でも、人の運命なのだから仕方ないというしかないのかな?

・五月中旬、もうそろそろ逗子の浜や森戸の浜で海の家の建築がはじまる。うるさい季節だ。のんびり浜で遊べない。

・森戸のオアシスもボブ・マーリー・ナイトを数年前からやらなくなってしまった。

・数年前の8月末ファイナルで問題起こしてしまってから、ちょっと派手なことはできないって状況だろうか?

・日本ではレゲエが音楽だとか、ポリシーだとかで語られず、ただふざけて騒ぐ道具として使われてしまっている感じがする。浅はかなレゲェ・ミュージシャンがジャーだとか、ラスタファイだとか言ってるのを聞くと胸糞が悪くなる。そんな宗教的なことを意味もわからず言うなって言いたくなる気分。

・それでも、また夏が来ればレゲエを聞きたくなる。

・ボブマーリーが死んでから29年。レゲエの神様はもう日本では神様として扱われていない気がする。

・残念なことだ。

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2010年4月11日 (日)

グーグル・ストリート・ビューがこんな所まで来ていた。不気味!!

・やはりGoogle ストリート・ビューはちょっと不気味である。

数年前にグーグル・アースがリリースされたときは地球のグラフィックスから指定した住所まで画面がズームしてその場所の写真まで見ることが出来る技術のすごさに唖然とし、驚いた。だが、写真まで出てくるのは大きな都市やランドマーク的な所だけだし、田舎は航空写真として屋根は見えるけど「ああ、この辺だな」って程度にしかわからなかったから、まあそんなもんかぁと思っていた。

・グーグルがストリート・ビューをリリースした時もプライバシーの問題などでネット上ではあれこれ騒がれていたが、今はそういう話もずいぶん静かになった。

最初の頃はストリート・ビューも都市部のメインとなる道路しか表示されていなかったし、都内の行きたい店を調べる時には重宝していたけれど、まあそれほど活用していたというわけでもない。自分の家の住所を入力しても神奈川の細い道を上がってきた山の中にまでストリート・ビューなんか来ているわけもないし、これは都心部に限った利用になるだろうなと思っていた。

・実際には東京や横浜の知人の住所を入力するとマンションの外観、一戸建ての様子まで見れてしまうし、駐車場に止まっている車も分かる。プライバシー保護ということでナンバーや表札はぼかしが入っているがその家がどんな感じなのかっていうのはストリート・ビューがカバーしている道路沿いにあればだいたいわかった。

逗子の高級住宅地である披露山や、葉山の山手の住宅地には一時期真っ昼間に外国人が二三人歩いていて、いかにも空き巣で侵入するような雰囲気で家を見て回っていたりしたこともあり、披露山ではガードマンが見慣れない居住者意外の立ち入りに目を光らせるなんてこともやっていた。

だが、グーグルストリートビューがカバーしているエリアなら、わざわざその場所に行かなくても家の外観がほとんどわかるし、止まっている車が高級車かどうかなんてこともわかってしまう。この家はお金持ちだな?なんてこともパソコンの画面上で確認できてしまう。やっぱりこれはちょっとマズイのではないかと思っていた。

・それでもストリート・ビューのカバー範囲がまだ都心部のみであったから逗子や葉山なんかは大丈夫だなぁなんて思っていたのだが・・・・なにげに先日ストリート・ビューを久しぶりに見ていたら、カバーリング・エリアが日本全国にドーンと広がっている。地方のなんでもない田舎町でも主要幹線道路沿いにまでストリート・ビューが広がっている。うーん、しばらく見ないでいたらここまで広がっていたのかとちょっと驚いた。

・そして試しに自分の家の住所を入れてみたら・・・・見事に出てくる。自宅から駐車場から止めている車まで。

ストリート・ビューの人型アイコンを地図の上にドラグするとカバーエリアが表示されるが、三浦半島もかなりのぶぶんまでストリート・ビューで見られるようになっていた。Photo_3

・自分の知らない時にストリート・ビュー・カーという車の上に360度カメラを設置した特殊な車が走り回って道路沿線を撮影しているらしいが、もうこんなところまでという道にまでこの車は入ってきているようだ。

・我が家は海岸線から車一台がようやく通れるような細い道を上がったところにあるし、ここに住んでいる人でなければほとんど来ることもないような場所なのだが、なんでこんなところにまでストリート・ビューがはいってきているのだろう? 手前の道を曲がればもっと大きな道が奥までつづいているしそっちの方が人家も多いというのに。まあたぶんこれはストリート・ビュー・カーを運転していた人の気分で「こっちに上がろう、そっちは面倒だからよしておこう」という程度で撮影されたのだろう。

・雰囲気からすると去年の5月か6月頃にここまで上がってきたようである。ちょうどあじさいの花も開いているし。それにしてもここまではっきり自分の家がネット上で確認できてしまうのはやはり不気味だ。まあわざわざ盗みに入るほどの家でもないだろうが、最初に自宅周辺の画像が出ているのを見たときはちょっと驚いて肌寒さを感じた。S070730gcamera_2

・三浦半島先端部に住んでいる知人の住所を入力してみたら、これもしっかり家から車まで写し出されている。

・こうしてどんどんストリート・ビューのエリアが拡大していくと、例えば付き合った女の子の家がどんな家なのかなんてことも確認できるし、それこそ家の外観から車までわかるからその家のことが推測できてしまうわけだ。マンションだってそう、カッコいい名前のついたマンションでもストリート・ビューで見たら築年数のずいぶんたった古いマンションだとかってことが分かるだろうし。ストリート・ビューのカバーエリアに入っていれば「君の家このあいだ見たよ」とか言えてしまうわけである。

ネットの技術発展の凄さは驚きだが、ここまで来ると肌寒さを感じてしまう。なんでもかんでもあからさまにネット上で見れてしまう。悪用することも充分可能。

・パソコンの画面上に映る自分の家を見ながら「うーん」と考え込んでしまった。

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2010年1月25日 (月)

ごぞんじ!!開高健 第Ⅴ集 夏の闇、そして菊谷さん・・・・・

□開高健記念会が主催する 特別紅茶会でセシリア・瀬川・シーグルさんの「夏の闇」翻訳秘話を語るに参加したのは去年の7月26日だった。ここではとても面白い話を聞くことができた。だが、記念会の方の話では大兄が無くなってもう20年。一緒に旅した人も、一緒にお酒を飲んだ人も、もうみんな高齢になり、今まで行ってきた紅茶の会で開高健にゆかりのある人の講演会ももう殆どの人に語っていただいて、今回のセシリアさんの会がたぶん最後になるだろうということだった。

Photo□いままで第Ⅳ集まで出してきた「ごぞんじ開高健」も、年末に第Ⅴ集を出しておわりになりますということであった。よのなかに沢山開高健のことを書いた本はあるけれど、自分としてはこの「ごぞんじ開高健」がなにより面白い。大兄と一緒に遊んだり飲んだりした人が思い思いに大兄の思い出を語り、大手出版社の本では絶対に載せられないような裏話も沢山読むことが出来る。これは本当に生き生きとした開高健を感じさせてくれる貴重な本だと思う。

□12月に発売された「ごぞんじ開高健 第Ⅴ集」をおくればせながら手に入れ、家にPhoto_2帰ってそそくさと布団に潜り込み、鼻の頭まで布団をかぶって、よしよしとばかりに第Ⅴ集を読んだ。おもしろい、本当に面白い。自分にとって「ごぞんじ開高健」Ⅰ~Ⅴ集は宝物のような本だ。きっとこ れからも何か面白いものを読みたいと思った時もぞもぞと取り出して何度も繰り返し読むことになるだろう。

□そして、年末にはもう一度「夏の闇」を読んでみようと思った。文庫本はあちこちに持って行くので3冊位あるが、濃密な文章が今からすると非常に細かい文字で印刷されていて、寝転がって気楽に読むにはちょっとしんどいものもある。ということでちょっと探してみたら昭和47年に発売された「夏の闇・特装本」を見つけることが出来た。ハードカバーの黒い箱入りでその箱をさらに和紙で包んである。流石に表の和紙にはシミが沢山付いているが中の本と箱はそのまま昭和47年、1973年に出版されて手つかずの状態。37年も前の本がこんな状態で今手にすることが出来るとは驚きでもあった。

□この限定版の特装本は2500部作られそのうち2440部には奥附の検印紙に開高健が肉筆で”ken”とサインしてある。残りの60部だけは開高健が自分で買い取り”私”と感じで書き入れたということである。流石にその“私”版は普通には出てこないし、金額もウン万ウン十万になるものであろうからそこまで手にしようとは思わない。コレクターというわけでもないし。文学は書かれた文字、物語にこそ価値があるのだから。(見てみたいとは思うけれど)Photo_3

□この特装本には「夏の闇」の意味するもの、とした佐々木基一氏との対談小冊子も入っていた。まあなんだか40年近く前にタイムスリップしたような感じでこの本も貴重な一冊として自分の書棚にずっと並べて、たまにもそもそっと取り出して読むことだろう。

□去年が開高健没後20年という年であったが、古い文庫本の復刻や、谷沢永一氏がこれまでの開高健の言葉を集めたもの、そのほかもエッセイを再編集したものなどは出たがまるで新しい本というのは出版されなかったように思う。そんなことを思いながらふと本屋に立ち寄ったら、引き寄せられるように一冊だけある雑誌に目が止まった「永久保存版 開高健 生誕80周年記念総特集」・・・・んー知らなかった。こういう本がでていたとは。あちこち開高健絡みのHPを見たり、mixiのフォーラムをのぞいたりしていたけれど、この本のことを取り上げている記事はどこにもなかった。一冊だけあった本を見つけぴらぴらとめくり、直ぐに購入。そして家に帰って布団に潜り込んでもぞもぞと読む。数年前に出版された「一句半句の戦場」にはこれまで単行本や文庫本に収められなかった大兄のエッセイや批評などがほとんどといっていいくらい集められていたが「開高健 生誕80周年記念総特集」にはこれまた今までよんだことのなかった記事や対談、特に娘である開高道子との対話まで収められていてこれまたとても面白く読むことが出来た。Photo_4

□なんやかんやと去年の年末から久しぶりに開高健に関する本にどっぷりと浸かって、ベッドの周りにはあれこれと開高健関連本が散乱している状況であったが、ふと今朝netを見ていたら・・・・菊谷さんが亡くなった・・・・という書き込みを見つけた。仕事に行く前だったのであまりに驚いてしまった。mixiには開高健関連のフォーラムがいくつもあって、新し話題はわりと書き込まれているほうなのだがすべてのフォーラムを見たが、関連することはなにも書かれていなかった。心にもやもやしたものが湧いてしまって釈然としないなか、ある人からある掲示板のことを教えてもらった。その掲示板には1月21日の書き込みで菊谷さんが亡くなられたと書いてあった・・・・・。(1月18日に他界されたということだ)

□そういえばセシリアさんの講演会にも来ていなかった・・・・・ご本人やご家族の意向もあってきっとあまり表に出さないようにということなのかもしれない。わからないけれど。ここでも菊谷さんとだけ書いておこう。分かる人はもちろんわかるのだろうけれど・・・

Photo_5□思い起こせば2009年の3月29日 開高健記念館で毎月末に行われる朗読会に参加した時、記念館の外のベランダのベンチに座っている菊谷さんを見かけた。記念会の人にちょっとお話して自分の持っている「ごぞんじ開高健」に菊谷さんのサインを書いてもらった。「なんてかこうか?」なんて言ってて「いつもニコニコ」と書いてくれた。ほんの少しだけ菊谷さんと話をして、開高健がラコステ・クラブに入っていて、その時のラコステのシャツを送ってもらったお礼状を見たことがありますよなんてことを話した。菊谷さんはニコニコしていたけれど、今から思えばはつらつと元気だったというのではなく、静かにベンチに座って体を休めていたようなそんな気もする。

□開高健が亡くなってもう20年、開高健を同時代で知る人も数が少なくなってきている。そして「ごぞんじ開高健」も第Ⅴ集で完結・・・・そして菊谷さんが亡くなったという・・・・ちょうど一年前、春を感じるようになった茅ヶ崎の記念館で、午後の日差しの中でゆったりと座っていた菊谷さんの姿が目によみがえる。

□たくさんの水が橋の下を流れたのだ・・・・・本当にそうなのだなと思った2010年の1月のある日であった。合掌

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2010年1月10日 (日)

伊東 松川湖の未来・・・・

□一番通って一番慣れ親しんだ釣り場、松川湖。海岸線の混んでばかりの134号を走って、何度この湖まで行ったことか・・・・初めて行ったのは2003年の4月位だったろうか? 伊豆にマイナーな湖があって、デカイニジマスが釣れてしかもめちゃくちゃ元気が良いんだ! そんな言葉を聞いて、よおしと行ってみたのだった。
□初めて松川湖で釣りをしてびっくりしたのは魚の元気の良さだった、それまで管釣りばかりだったのもあるけれど、フッキングしてからの暴れ方、ジャンプ、なんて活きの良いニジマスがここには居るんだろう!と驚いた。水も飲んでも良いくらいキレイだし、釣り人も少なく、醜い場所とり争いなんかもせず、ゆったりと釣りが出来た。そんな意味でも松川湖は素晴らしかった。
□小田原から峠を上って芦ノ湖にいくもの、ずっと海岸線を走って松川湖に行くのもほぼ2時間ということで距離的には同じくらい。でも松川湖の方が全然良かった。行けば必ず釣れるし、地元の仲間もできたし。
□あの頃は松川のインレットもキレイな清流だったし、落合川のプールも深くて、朝まづめには魚が溜まっていた。
□梅雨時の松川インレットS字でドライで20匹位釣ったときもたのしかった、対岸の緑の木々草花が目に飛び込んでくるほど鮮やかに輝いていた。雨の中、まるで北海道の川で釣ってるかのようにドライを送り込み、絶え間なくライズする魚と飽きることなくずっとドライの釣りを楽しんでいたときもあった。

□初夏の早朝、落合川のプールには大型のニジマスが遡上してきていて、そっと駐車場から下りていってお気に入りのロイヤルコーチマン・ドライフライをプレゼンテーションすると一発で50オーバーのニジマスが来たこともあった。2番ロッドでドライで50オーバー。エキサイティングだった。

□でもその頃から気になっていたのは、雨が降った後の濁りだった。上流部から流れてくる濁りは明らかに赤土を含んだ土の酷い濁り。台風の度に松川インレットは形をかえ、浅くなり、土砂でうまっていった。白川橋より上流部に行って見ると、山は土砂が崩れ、赤土が露見し、それが雨と共に大量に松川湖に流れ込む状況になっていた。

□しばらくしてインレットのS字は土砂でうまってなくなった。真夏の暑い日中、このS字の深みには50オーバーのレインボーが溜まっていて、対岸からサイトフィッシングでニンフを流し込んで釣ることができたのに、今ではそれもない。落合川のプールも土砂で埋まってしまって朝一の遡上ニジマスを楽しむ状況ではなくなってしまった。

□ブルドーザーでの土砂採りも行われたが、そんなものは一雨で全部だめになった。

□そして昨年辺りから赤土の流入はさらに激しくなり、ログハウス下のインレットは殆ど埋まり、浅瀬のようになってしまった。水生昆虫もこの状態では生きていけない。

□ダムサイト側はまだ深さもあるからルアーでの釣りはなんとかなるけれど、バックがとれないからフライは難しい。ログ下もこんなに浅くなってしまっては魚の回遊も期待できない。

□後何年か、いやあと何回か大きな雨が来たら、松川湖のログ下は全部赤土で埋まってしまうだろう。そうでなくてもこのリザーバー自体が上流から流れ込む赤土でいずれは埋まってしまうことだろう。

□素晴らしかったフィールどが今潰れようとしている。上流の山間部での伐採、土壌の不安定化。松川湖の土砂堆積、それはそのままいずれ下流の大川から伊東の海にまで流れていくだろう。

□このままで山を何とかしなければいずれ海までも赤土に飲み込まれるかもしれない。

□一つのフィールドが死にかけている。そしてそれをどうしようもできないでいる。

□松川湖はいずれ思い出のなかだけに生きる湖になってしまうのだろうか・・・

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2009年12月16日 (水)

逗子デニーズ閉店前のスゴイアクセス状況

A2009y09m27d_224651875  □9月27日に普段は知りあいしか見に来ないようなこのブログのカウンターが物凄い勢いで上がり始めた。なんせ一時間で数千もアクセスカウンターが回転するんだから・・・これは一体なんだ? と目をむいて驚いていたのだが、アクセス履歴をみたら8月23日の日記に集中している。逗デニの閉店のことを書いた日記だ。でもなんで?と思ってYahooを見たら、トップページに逗デニ閉店のニュースが乗っていて、なんとまあその関連リンクにこのブログがトップでリンクされていた。 いやはや驚き。どうしてまたこんな思いつきを書いてるようなブログがYahoo!ニュースのトップにリンクされるんだろう? まあ他にも逗デニの閉店のことを書いてるブログはあるようだが、たまたまYahoo!の担当者がここを最初にリンク掛けたのだろう。
なんといつもは二三人しかアクセスのないこのブログが、Yahoo!のニュースがのったとたん743人、1179人、そして午後7時には8012ものアクセスに跳ね上がった。すごいことである。2009y09m28d_064222796

□日が変わって28日、逗子デニーズ閉店当日になってもアクセスは一時間あたり3500から2500という凄い数だった。んーさすがYahoo!のトップにリンクされただけのことはある。一日で数万人がこの誰もしらないようなブログにやってきた。いや? それともトップにリンクされてもこれっぽっちかってとこかな? なんだかんだいっても一部ローカルな人にしか訴求しないニュースだったから。神奈川や東京、湘南、逗子デニーズに行ったことの無い人には「なにそれ?なんでたかがデニースの閉店がニュースになるの?」って程度で関心は低かったのかもね。
そういう自分はニュースにでも出ないかなぁとテレビを見てた。丸井の中野本店が閉店するときはニュースになってたなぁ、日本橋東急閉店の時もニュースになってたなぁ、逗デニ閉店もニュースになるかなぁ?なんて思ってたけど一番ニュースを流しそうな報道ステーションもそんな話題一つも無かったし、ニュース23も同じ。こんな時代だから誰かがYOU tubeに画像でもあげるかな?と思ってたら一人アップしてる人がいた。
まあそんなかんなで逗デニも閉店した。短パン長靴吐いて汚れたTシャツで入っていける一部の人にはおしゃれで思い出のファミレス。自分たちにとってはもう地元の定食屋感覚だったかなぁ。
閉店後の跡地はコロワイドが渚橋コーヒーなんてものを営業してる。なんかにわか営業って感じ。しばらくしたらまた別の店が建つんじゃないかね?

そんなかんなでもう閉店から3ヶ月近くになろうとしている。
それでも渚橋から曲がって県道を葉山マリーナ方面に走るたびに、昔ここにデニーズがあったんだよなぁって・・・きっと思い出すのだろう。

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2009年9月21日 (月)

NEGLECTED DANDY ネグレクティド・ダンディもしくはネグレクテッド・ダンディ

・NEGLECTED DANDY 
余りかしこまらない、無頓着でさらりとしていて、無関心なように着飾ったおしゃれ、かっこよさ・・・とでも訳すべきか。

・故開高健がよく口にしていた言葉なのだが、検索エンジンで探しても該当する項目なしと出る。検索エンジンに出ないと言うことはある意味恐ろしい。もうこの世にこの言葉は存在しないと言っても過言ではないほど、日常生活は検索エンジンに支配されているのだから、情報も知も検索エンジンの結果の中で収束してしまう。されてしまう。

・なにかグーグル、ヤフー以外で、どこかの誰が作ったかわからぬアルゴリズムに支配されているものではない別の論理から導かれる検索エンジンというものがないものだろうか??

●『ザ・開高健 巨匠への鎮魂歌』読売新聞社 
    P.134 ネグレクティド・ダンディ 山本康一郎(スタイリスト)

●『「面白半分」の作家たち』佐藤嘉尚 集英社新書
 P.25 「こういう無造作なのがネグレクテッド・ダンディいうて最もイキなおしゃれなんだよ」開高健弁

・NEGLECT
vt., n.
怠る; おろそかにする; 無視する; しないでおく; 怠慢; 無視; 放置.
ne・glect・ed ━━ a. 無視された.
ne・glect・ful ━━ a. 怠慢な; 不注意な, むとんちゃくな.

・DANDY
n. しゃれ男; 〔話〕 逸品; 〔話〕 飛び切りすばらしい人.
a. おしゃれな; 〔話〕 すてきな.
男性の服装や振る舞いが洗練されていること。また、そのさま。「―なスタイル」

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2009年9月18日 (金)

2009年相模湾キハダマグロ・・・もう出ないか?

・8月の台風のうねりが押し寄せた後、26度の水温線が城ヶ島にくっついたとき、今年の相模湾はようやく夏になった。カツオが釣れだした。(かなり小型だったけど)。
・今年は本当に冷夏。海もいつまでたっても夏にならなかった。シイラも正直不調というしかない状態。カツオの小ささは驚くばかり。そして、今年も入ってきた!と色めき立ったキハダマグロ。船宿の情報では50キロ、60キロなんてのがジャンプしてた。20−30キロクラスがイワシを追いかけてた。なんてのが流れたのだが・・・・プレジャーボートやトローリング船での釣果は分からないけれど(大きいのが釣れてたらどこかのブログとかには出てるものだがそれもない)結局今のところキハダが釣れたのは平塚の庄治郎と庄三郎の二船だけか。先週は大きいのがジャンプしてるのをまさみ丸で狙ったとかゆうのもあるが、やはり単発、ハイスピードのキハダをキャスティングで仕留めるのは運も大きい。いっぱい泳いでいれば別だけど、今年は去年とはやはり違う。いや、去年が異常だったのだ。いつもの年の相模湾なら何回かは大きいキハダも見れるけれど、釣るというところまではいかなかったというのが普通だ。今年は普通の状態に戻ったのだ。(いや、30キロクラスが2本出たというだけで普通ではないかも)
・相模湾の海水温はもう23度まで下がってしまった。黒潮ははるか八丈島の辺りまで遠のいた。キハダマグロの適水温ということなら23度でも充分なのだが、黒潮があんなに遠くに流れていたのでは、黒潮に乗ってやってきたキハダが相模湾に入ってくるとうことも考えにくいだろう。
・去年はメジマグロも全然だった。今年はようやくカツオがバカバカ釣れだしたのが9月に入ってから。メジはぽつぽつ。
・もう9月も後半。台風の後でまたどなるかわからないが、去年のようなキハダ・フィーバーはもう今年は望めないだろう。
・却って4キロクラスのカツオとか中型のメジがいっぱい釣れてくれたほうが、2009年のオフショア・シーズン終盤としては嬉しいのだけれど。

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2009年9月 5日 (土)

今年の相模湾・・・ようやく鰹も押し寄せたかと思ったら・・・9月5日

・先週31日の台風で相模湾にいい潮が流れ込み、鰹の群れも大挙して入ってきたようで、木曜、金曜辺りはどの船も鰹爆釣り。ルアーでもフライでもひっぱたきでもなんでも面白いように食ってきて釣れまくった・・・・ということだったのだが・・・・週末土曜日になったらその活性の高い群れが一気にスレたのか、今日出た船ではなかなか鰹が口を使わず、どの船も大漁を期待してたのがあてが外れたみたい。

・中には活性の高い群れに当たって入れ食いだった船もあるようだけれど、総じて今日は期待に反する結果だったようだ。

・さらに、台風後のキハダマグロにも期待していたけれど、これまたどこの船もダメ。どこかのプレジャーボートでは上げているところもあるかもしれないけれど、相模湾のあちこちの船宿ではまったくダメだったようである。

・去年より大きい30キロから中には50キロ(ホントかな?)クラスが跳ねているなんて情報が8月に入ってあちこち飛び交っていたが、結局キャスティングでゲットしたのは平塚の二船だけかな?これまたプレジャーの釣果はわからないけれど。

・やはり今年のキハダの状況は去年とは違うね。去年はかなりの数が相模湾に入ってきたけれど、今年はそれほどではないみたい。30キロクラスがジャンプしてるとか、泳がせの鰯に大型が食いついてラインを出されたなんて話は毎年夏になればあったんだから、今年はキハダが入ってきたとはいえ、いつもの年の状態に戻ってきているのかも?

・相模湾で大型キハダが狙えるというのは素晴らしいことなのだけれど、やはり温暖化や潮の流れの異常さなどけっして喜べるとう状況であるわけでもないので、普通の状態に戻ってくれた方がなんとなく安心でもある。しかし大きいのは釣りたいけれど・・・。

・今年は観測史上一番とも言われる日照不足、冷夏の夏だったわけで、相模湾の海水温がいつもの夏の海になるのに1ヶ月遅れた。それでいけばひょっとすると9月から10月、いや11月位に大きいキハダが釣れ始めるとか、メジも遅くなって入ってくるとかかもしれないけれど、果たしてどうなるか。

・相模湾オフショアのメインシーズンは10月前半位で終わるし、今年はキハダマグロのフィーバーはないかもしれないなぁ・・・まあまだ一月半あるけれど。

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2009年8月29日 (土)

今年最後の花火、8月29日横須賀西区納涼花火大会

・夏になると毎週のように各浜辺で行われる三浦半島の花火大会。今年は葉山から始まって、江ノ島と続き、鎌倉はどうしょうもないことに順延なしで中止、そして逗子、その間に横浜、いつもなら見に行く横須賀開国は横浜と重なって見ないでしまった。
・そして毎年恒例なのが、最後の締めということで、横須賀西区花火大会。自衛隊の武山駐屯地が解放されて行われる夏の最後の花火大会。打ち上げ本数は公表で1200発と三浦半島で行われる花火大会では最も少ない。だけどここの花火大会はなんだか懐かしい雰囲気があってとっても好きだ。
・JRも京急もない134号林ロータリー前の自衛隊武山駐屯地はアクセスはどうしょうもないくらい悪い。近くに駐車場もないから、三崎口か逗子などの駅からバスかタクシーで来るしかない・・・でもそんな人はきわめて少ないいだろうから、ここの花火大会に来るのはこの辺に住んでいる人、歩いてここまで来れるような人ばかり。それでいて結構な人がここにやってくる。去年の来場者数が10万ちょいと発表されているが・・・んー、10万人はいないでしょうと思うな。たぶん2万人くらいなんじゃないかな? まあそれはいいとして非常にローカルな、地元に居る人しかこれないような、とっても地域性の高い花火大会で、なんだかそこが凄くいいのである。
・この花火大会のおかげでタダでも込む林のロータリー付近は大渋滞がずっと三崎方面にも逗子方面にも繋がっている。これは仕方なし。
・花火大会の前には盆踊り大会もやっていて、広い自衛隊の敷地内の草原で沢山のひとがのびのびひろびろとした空と大地のなかで盆踊りを踊っている。ここには狭さや窮屈さなんて全然ない。
・自衛隊の若い兄ちゃんたちは日頃男っ気ばかりの中にいるせいか、ちょっと目がぎらぎらしていて、可愛い女の子に声を書けようとニキビ面で歩き回っている。これも微笑ましい。
・自衛隊の人が屋台をやっていて、ホットドックや焼きそば、カレーなどをだみ声で売っている。店はそこそこあるのに、どの店もずらりと人が並んでいてとても列に加わろうという気になれない。7時過ぎたあたりからあちこちの店で「すみませーん、売り切れました」の声。ずっと並んでいた人たち、家族連れにまで「すみません、あと20個くらいしかないので、この辺りはもう買えないと思います」なんて言って回っている。普通ならせっかく長い行列に並んで待っていたのに、いきなり売り切れです、ここから先の人は買えませんなんて言ったらクレーム付ける人や、怒り出す人が絶対いそうなものだが・・・ここでは自衛隊員に「スミマセン売り切れです」と言われちゃうと「もう、しょうがないねぇ、全く」といったかんじで、みんな文句も言わず諦めて自分が広げたシートの方に戻っていく。
・年に一回ここで訓練してる自衛隊員が素人屋台で売ってるんだから、文句言ったって仕方ないや、許してやるよってみんな思っているかのようだ。
・真ん中の広場はみんなシートを広げているけど、屋台の裏の草むらはいつもがらがらで、しかも打ち上げ場所が目の前だからベストポジション・・・と思っていたのだが、今年はなぜかこの草むらにも沢山の人がシートを広げて場所取りをしていた。ありゃまぁと思ったけど、広い駐屯地だし、人もそんなに多くないからいい場所は一杯余っている。
・打ち上げ場所までたぶん100mもない場所を確保してかき氷を食べながら開始を待つ。
・7時半のスタートと同時に連発打ち上げ、そしてその後は単発と連発を交互に繰り返してポーンポーン、バババというリズムで花火は打ち上げられていく。打ち上げ本数も少ないからメジャーな花火大会のようにどんどん花火が打ち上げられるのではなく、一本一本ゆっくり打ち上げられる感じ。でもこの感じが昔の田舎の花火大会っぽくてすごくいい。ゆったり見れるし、一つ一つの花火をきちんと堪能できるという感じ。あまりに目の前で打ち上げているから寝転がっていないとすぐに首が痛くなる。だって、頭の真上辺りで花火が広がるんだから。
・空を見上げていると風向きによっては爆発した花火の紙くずがふわりふわりと漂ってきて顔や足に落ちてくる。もうホントにこれって田舎花火らしくてイイ。
・ゆっくり単発が多い打ち上げ方だから30分もやっているとちょっとまだるっこしくて飽きてくるんだけれど、今年はなんだか他では見たことのない雪だるまの花火や四角い箱でも模したような花火なども打ち上げられていた。
・そして八時過ぎのラスト。もちろん5500発を10分で打ち上げるあの逗子のすごさにはかなわないけれど、西区の花火大会もラストは頑張ってくれてる。地上からババババと連発で花火が打ち上げられ、目の前の空が花火で埋め付くされる。これはいつ見てもいいなぁ、本当に綺麗だ。そしてみんなが盛大な拍手を送る。
・武山の花火もラストはなかなかだよ!と毎年感心している。
・今年の夏の花火大会もこの西区が追わればほぼ全部終了。もう9月、夏は過ぎ秋の気配を感じつつ武山駐屯地の草むらを後にした。

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2009年8月28日 (金)

そろそろ夏も終わりの長者ヶ崎、今日は水の透明度が凄く上がっていた

・もう日差しは強くてもジリジリと焼け付くような感じはなくなり、海辺でも夏がお終いだなぁと思える今日この頃。
・今年は何度も行っているけれど、もう少し泳ごうかと長者ヶ崎へ!
・逗子の大崎、森戸、一色、長者とあちこち見たけど、やはりその中では長者が一番水が綺麗だった。南の島の青さ、透明な水、綺麗な砂浜・・・じゃないけれど、逗子や森戸の浜辺のような薄緑の水では中に入ろうという気にもなれない。森戸だと森戸川のあの茶色い家庭排水まで流れている水に飛び込んで泳いでいる人もいるのだから驚きなのだが・・・。
・長者は海の家も二軒しかない、ちょっと一色側に歩けばもう一軒あるけれど、本当に静かで田舎の海水浴場という感じ。平日ではホントに人も少ないし。
・さあ、軽くひと泳ぎしてシュノーケリングで魚でも見ようかと砂浜に立ったら「あれ、水が透き通っている」と驚き。潮が替わって、濁っていた水が外に払い出され新しい海水が入ってきたのだろうか? 今までとは全然違う位水が澄んでいる。
・シュノーケリングの道具を付けて泳ぎだすと、この間まであった沢山の糸くずのようなゴミ、水中に浮かぶ細かな埃のようなゴミも非常に少なくなっている。水面から水中メガネで覗いていても海底までしっかり見ることが出来る。
・沖の岩場に近づくまでずっと水中を見ていたが、透明度は5,6m位まで回復している。おかげで今まで見たことのなかった魚も随分と寄ってきているようだ。
・今日はイワシの群、海タナゴと小メジナの群、大型のボラ(ボラは汚い排水に付いているようなイメージがあるが、本来は綺麗な水を好む魚)、それからこれはびっくりしたが岩場にはカワハギの子供が数匹スクーリングしていた。3cm位の大きさでタツノオトシゴかと見間違えるようなゴツゴツした体。泳ぎ方がとても面白い。
・岩場に上がっても日差しが肌に突き刺さることもない。心地よい風、適度な涼しさ。八月も明日が最後の週末。少しは込むのかな? 30日で多くの海の家もクローズとなる。6月頃から建て始めていた海の家がもうお終いか、夏が過ぎるのは早いなぁ、それは子供のころも、今も変わりない。
・余り暑くなくて涼しい夏だったけれど、それでもまあそこそこ良い夏だったかも。
・もう一回くらい泳ぎに来るかな??

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やっぱり夏は花火。今年はサイコー逗子海岸花火大会。文句なし!8月27日

Hanab214Hanab213Hanab215Hanab217Hanab218Hanab219Hanab2110       ・もう夜は涼しさを感じる8月27日(木)ようやく待ちに待った逗子海岸花火大会開催。今年は例年より一ヶ月遅れの8月末開催ということで待ち遠しかった。

・隅田川花火大会や長岡花火など全国的に超有名な花火大会はあれこれあるけれど、やはり湘南の海辺で見る花火大会が一番いい。異常とも思える人ゴミ、混雑の中で遠くに見える花火を眺めているよりも、すぐ目の前から打ち上げられて、どーんと大輪の花を頭の上で開いて、ドスンと胸に響く音を感じて見ることの出来る花火が何よりも最高である。

・湘南地区の花火大会はそれなりに混みはするけれど、平日ということもあり都内から見物に来る人も少なく、基本的には近くの町から来る人ばかりで観客はしめられていると思う。だからあまり混雑もない。

・とは言っても海岸線は開始直前はもういっぱいになってしまって入場制限までしていたらしい。(一時間位前に浜辺を見たときはがらがらだったんだけどね)

・浜辺では音楽を流したり、来ている連中の歓声などで盛り上がりがあるんだろうけれど、この地に住んでいる人間としては敢えて混雑する浜に行く気にはなれないのでいつも通り海岸へは行かず、葉山寄りのポイントで鑑賞。

・この場所は混雑とう言葉とは無縁で、しかも打ち上げ船がほぼ目の前に見える。どーんと打ち上げれた花火が目の前で大きく開いて頭の上に降ってくるかのように見ることのできる最高の鑑賞位置。大きな尺玉だと花火に体が包まれてしまうかのような感覚にもなってしまうところがまた最高である。

・いつもの年なら10分前に行っても大丈夫なのだけれど、今年はベストの中のベストの場所を押さえるべく30分前に冷えたビールとつまみとチェアーを抱えてここへ。充分な余裕で真っ正面に打ち上げ船が見える場所に座ることが出来た。

・7時20分の花火開始から8時までのたったの40分間。しかし逗子の花火は打ち上げの密度が高い。ポーンポーンと単発で打ち上げる花火も田舎っぽくて嫌いではないが、やはりドドドンドンと連発に連発を重ねて空が花火で埋め尽くされるような打ち上げ方の方が爽快だし、もう唖然とするほど感動する。

・逗子の花火はとにかく集中的に打ち上げる。打ち上げ本数は発表では7000発ということで他の花火大会に比べて特に多いというわけではない。
隅田川花火大会が21500発、神宮外苑花火大会が1200発、神奈川なら横須賀開国祭りが10000発、横浜花火大会が8000発(今年は開国記念花火大会がなくなった)、集客では逗子より多いだろうと思われる江ノ島花火大会が5000発、鎌倉花火大会が3000発(今年は台風で中止、順延なし・・・だめだこりゃ)厚木鮎祭りの花火が12000発。

・打ち上げ本数としてはまずまずのところだが、とにかく連発が良い。

・グランドフィナーレの10分間にもうほんとうに夜空を埋め尽くさんばかりの花火5000発が息を付く暇もないほどに打ち上げられ、そらは燦々と花火の光できらめく。やはりこのラストの連発はもう文句なしだ。

・「すごーい、こんなに凄いの見たことない」なんて声が近くからも聞こえていたが、そうであろう、遠く離れたビルの屋上や川縁から眺める花火とちがって、目の前でこれだけの連発を見ることが出来るのだから・・・・正直この連発はくせになる素晴らしさだ。

・逗子市の考えで今年から花火大会が夏の最後8月末になったが、まあそれはそれでいいとしよう。これだけ胸がすーっとするような気持ちのいい花火を見ることが出来るのだから、それも本当に目の前で。

・逗子の浜では音楽に合わせて花火を鑑賞ということでクラシックやらキマグレンの曲やらが花火の音と歓声にまけないくらいの音量で流されているようだが、YOUTUBEなどの動画で見ていると・・・・んー、この音楽いらないなぁって自分は思うなぁ。純粋にドドドンの花火の音を感じたいし、夏の静かな夜空にヒュユウウウウ・・・ドンと上がっていって開く花火がいいのだから。空に上がっていくときの音も花火の良さだし。

・幸いにして葉山側からだと殆ど逗子海岸の音楽は聞こえない。やっぱり自分はこっちで見ているのがいいね。

・今年は暑くも無く、風も無く、くっきり晴れた夜空で条件としてもよかったなぁ。少し煙が花火にかぶさっちゃったというのはあるかもしれないけれど。

・夏の日の夕暮れ、混雑することのない場所でゆったりチェアーに座って、ビールを飲みながら目の前で打ち上げられる大輪の花火を鑑賞する。これってひょっとしてものすごい贅沢なことなんだろうなぁ。

・やっぱり夏は花火なのだ、日本人は夏と花火を切り離すことは出来ない。海も夏の代名詞だけれど、やはり花火を見ると心がときめく。見終わるとちょっと寂しさもかんじてしまうのだけれど、今年の夏ももう終わってしまうんだなぁって。

・そう、あんまり暑くは無かったけれど、今年の夏ももうすぐ終わる。

☆グランドフィナーレの物凄い花火の様子。

*写真は逗子市観光協会のページから拝借しました。

☆一夜明けた逗子海岸に行ってみた。昨日のあれだけの人出でゴミとかもいっぱいになってるんじゃ? と思ったが、凄く綺麗で空き缶やゴミ袋などもなく、いつも以上にさっぱりとした綺麗な浜辺だった。夕べの内にゴミ関係は全て片づけられたんだろうなぁ。この辺の管理は凄いし、りっぱだね。
国道沿いの自動販売機の横とかには空き缶の袋とかが何個か積み上げられたりしてたけれど、10数万人が来た花火大会の後としてはほんとうに驚くくらいの綺麗さだった。朝、ゴミを回収する大きめのトラックが走っていたようである。
・森戸海岸なんて、週末になるとバーベキューをした人がゴミを全部森戸神社側のゴミ箱の辺りに置いていくから、ゴミ袋が山のように積み上がっている。あれをみるとがっかりしちゃうんだけれどね。まあ仕方ないかこれは。

http://www.youtube.com/watch?gl=JP&v=2m3RGt-HxMA

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2009年8月25日 (火)

眠っていたipodを久しぶりに取り出す・・・・

・自分の持ってるipodは確か第三世代かな?2004年位に買った20GBのクイックホイールモデル。買った当初は「いやー、これは便利だ、今までCDを何十枚もCDケースに入れて車に持っていってたり、MDにダビングしてたのが要らなくなる。このipodだけでCDが数百枚入るんだからもうCDチェンジャーもMDデッキも要らないじゃん」と大喜び。ipodをカーステに接続して冬のスノボも夏の釣りもこれ一台でBGMは全てまかなえてた。

・今のipodは60GBとかビデオ再生のものだと120GBとかにまでなってるが正直20GBでも3500曲も入るし、これ以上大容量でももう持て余す状態。なんせ家にあるCDをどんどんituneに読み込ませて3500曲を転送するのに一ヶ月位かかったんだから。

・しかし、そんな苦労したipodも次第に使わなくなった。3500曲も入ってるととても全部なんて聴ききれないし、好みの曲を探すのも面倒。結局プレイリストに登録した100曲前後のお気に入りを繰り返し聞くだけとなった。そしてそのうちにまるで使わなくなってしまった。

・1000曲とかって通常の人間が聞く音楽の通常のキャパを遥かに越えているんだろうなぁ。新しい曲を入れていっても結局は特定の曲ばかり聴くことになるし、最近の曲なんて「お、いい感じだな」とは思ってもわざわざCD買ったり、DLしたりすることもなくなったし。

・iphonにしてもTouchにしても、携帯にしても、BlackBerryにしても、恐ろしいほど機能満載。普通じゃ使い切れないほどのソフトだらけ。これは正直おもちゃであり、誰か友達に最新型を使ってるんだよって見せびらかす為に皆持っているかのように思ってしまう。

・もっとシンプルでいいんだよなぁ、企業の宣伝や販売戦略に載せられて必要でもないものまで手にし、購入し、使い方を覚えて、ほらこれ凄いよって会った人に見せびらかすことで会話を成立させている時代が今であろう。

・3500曲も入っているんだからもうこれ以上は必要ないよ、自分にはこの第三世代のipodでたまに音楽を聴ければ充分さ。と思っていながら、ちょっと新しい曲を入れようなんておもうと、ソフトのバージョンが上がっていて古いipodではもう使えませんなどということになっている。考えられたビジネス戦略だろうが、こうやって無理にでも消費を引っ張り出す、引っ張りだされるという今のビジネススタイル、そしてそれを漫然と受け入れてしまっている今の世の中とこの時代の人間の感性というものにも疑問を生じてしまっているこの頃。

・海辺に住んでいると余計なものなんて皆捨てちゃおうかななんて思ってしまうんだけれど、こっちに遊びに来て一番新しい携帯やipodの機能を「ほら、これ凄いんだよ」なんて見せてくれる知人を見ていると・・・なんだかもうそういうのは俺はどうでもよくなってきてるんだよ・・・と言いたくなってしまう。言わないけれど。

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2009年8月24日 (月)

2009年今年の相模湾 カツオ、キハダマグロはどうなるだろう??

・先週土曜日22日に予定していたオフショア船は朝港に行ったらうねりが強くこれでは釣りにならないということで中止になった。

・去年は6月位から相模湾にドデカいキハダマグロが入ってきているということで話題になり、エサ釣り、ルアーの船とも20キロから30キロオーバーのキハダマグロを釣り上げ、相模湾全体が異常なヒートアップ状態だった。

・釣り船の船頭も「こんなことは40年釣りしているが初めてだ」という位の状況で、言ってみれば沖縄の久米島、近場でも銭州あたりまで行かなければ釣れなかった、居なかった魚が東京からほんのちょっとの相模湾に退去して入ってきたのだから明らかに異常な状態だった。だれがなんと言おうとこれは異常気象、温暖化などの可能性が高いだろうし、相模湾の潮の流れ、状態が大きく変化しているということに違いないのだ。

・それでも、去年は「こんなことは二年と続くまい。来年は入ってこないよ、いや入ってくるならもう本当に相模湾は変わったという事になる」と話していた。

・そして2009年、今年は黒潮がかなり沖合いを流れていて、記録的冷夏、日照不足も重なり相模湾がずっと20度前後の夏前の海で7月下旬まで来ていた。夏の青物もシイラを含めてここ10数年で一番不調の年だった。それが8月頭の台風で海水温25度のラインがいきなり城ヶ島まで接近し、相模湾が一気に夏の海に変わった。

・「今年はキハダ入ってこないよねぇ」なんて船宿のおばちゃんに話していたら「いや、居るみたいだよ去年の残ってるのかどうなのか分からないけど」という返事。すると8月第二週辺りからあちこちの船宿でキハダの群れがジャンブしている、大きいのを見たという情報が流れてきた。大島沖では黒マグロの20キロクラスが跳ねていたらしいし、プレジャーボートのキャスティングでキハダ、黒マグロを釣り上げた人も出てきたという。

・そして8月お盆過ぎ、去年と同じく今年も相模湾にキハダの群れが入ってきたことがほぼ確実となった。現時点では去年ほど数は多くないようだが、あちこちで、特に西の海域で跳ねる姿が多く目撃されている。

・さあどこの船が一番最初に20キロオーバーのキハダを釣り上げるだろうか?とあちこちの情報を毎日のようにチェックしているが、今だ知る限りにおいては大物が釣り上げられたという話を聞かない。(どこかで上げられてるのかもしれないが)

・平塚の船ではコマセ、エビングで明らかに20キロオーバーが掛かり、船べりで隣の釣り人のラインと絡まりブレイクというのがあったらしい、他の船でもキャスティングでヒットしたがラインブレイクという情報も出てきた・・・・しかし、未だにどこでも大物が上がっている話が無い・・・。

・今年のキハダは警戒心が強く、船が近づくと深く潜ってしまい、ルアーでは厳しいという話も聞く。カッタクリやコマセで20m-40m位の棚を探らないと食ってこないなどという話もある。果たしてどうなるのか??

・とにかく去年のようなバカバカと釣れる状況、魚ではないようだ。数的にも去年程の大群ではないようだし、魚の様子も去年とは明らかに異なる。ひょっとしたら海が例年よりも一ヶ月以上遅れているから9月中旬、10月頃になると魚の活性は上がるかもしれない。さらに秋口の11月頃になって大型が釣れ始めるかもしれない。どうなるかは予想出来ないが、兎に角去年と同じ表層中心の釣り方では暫く大型が上がることはないのではないかと思う。

・今後がどうなるか分からないが、なんにしても今年もキハダが相模湾に入ってきたことは事実だ。これは確実に海が暖かくなっていることを示しているだろうし、南洋の魚が相模湾でも充分に生きていけるという状態になってきたという証拠であろう。やはり温暖化ということを考えずにはいられまい。今後海はどうなるのか? 相模湾でトレバリーが釣れるなんてことになってしまうのだろうか?釣り人としては嬉しい部分もあるが、やはり地球がどんどん暖かくなっていっているという怖さも同時にある。

・取り合えず魚を釣りたいという釣り人にとっては大きな魚が目の前の海にいるというのは嬉しいことだ。しかし今後もこんな状況が続くなら、キハダマグロのメッカでもある久米島や沖縄のパヤオなどにわざわざ行かなくても相模湾で充分釣れるということになってしまうかもしれない。釣り方もひょっとしたら久米島スタイルでコマセをパヤオの近くに撒き、キビナゴのフカセで魚を釣るなんてスタイルがこの相模湾で始まるかもしれない。

・果たしてどうなるのか? 温暖化という怖さと大きな魚が釣れるという嬉しさ・・・少し複雑な思いを抱きつつ毎日のように相模湾の釣り船の情報をチェックする日々が続きそうだ。

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2009年8月23日 (日)

あちこちに書かれているけど、逗子デニーズ 閉店

Photo もうあちこちのブログなどにも書かれているようだけれど、なぎさ橋の逗子デニーズが2009年9月28日で閉店になるという。

・一時期は日本でも一番の売上だとか言われていた(ホントかな?)らしいし、なぜか逗子ではマクドナルドもかなり全国上位の売上だとかでチェーン店の売上の高い店が出来るようである。

・確かに、ファミレスが大流行の頃、逗子の海岸が真近に見える逗子デニーズはお洒落な場所だった。夜にちょっと彼女とドライブなんてとき「じゃあ海を見に行こう」なんてのは今昔の定番台詞で、そのときにどこかでお茶しようか?なんてのに逗子デニーズは最適だった。昔はファミレスって食堂とは違ってレストらんだから、お洒落でちょっと高級というイメージでもあったし。

・でもここんところずっと行ってなかったなぁ、逗子デニーズ。近くに友達が来たときのランドマーク、車で合流するときの待ち合わせ場所としては利用していたけれど。

・週末になると24時間営業だし、夜遅くになっても車はひっきりなしに出入りしていた。朝までの時間つぶしでここに寄るという連中も多かっただろうし、どちらかというと週末の深夜から朝の時間は都会のカラオケ屋みたいな感じで若い兄ちゃん、ネエチャンがごろごろたむろしてる、あまり良い空間とはいえない場所になっていた気がする。

・従業員もコストダウンのためか人数が少なく、完全に働いている人はキャパオーバーじゃないのと思ったりもしていた。(いつまでたってもオーダー取りに来なかったりね)

・地元ということもあって自分たちには何気ないレストランになっていたから、釣りした帰りの長靴で入っていくことなんかもあったし、自分のなかでは気楽な食堂と化してたかもしれない。

・その昔(といっても20-30年前、まあ充分に昔か?)はファミレスが週末に出掛けて食事するお洒落でちょっと高級な場所だった。それがイベントでもレジャーでもあった。だが、だんだんと世の中の嗜好は変化し、今からすれば割高といえる料金設定のファミレスから足が遠のくようになった。外食はコンビニやもっと安いチェーンが主流となりファミレスは客足がどんどん落ちていった。再集客のために数年前からメニューの価格の値下げが何度も行われ、今では普通の食堂くらいの1000円前後の値段の食事も増え、モーニングメニューなどなら500円程度だから相当に安く、お得にもなった。でもやはりファミレスの客足減少には歯止めが掛からなかった。

・逗デニの場合は借地営業だったとかいうことで、実際に赤字だとかで閉店するのではないということだが、昔の思い出のファミレスも今では殆ど足を運ぶこともなくなり、今回の閉店もなにかあまり感傷的にはならない部分がある。

・茅ヶ崎のホテルパシフィックなどと同じように、いつかこのなぎさ橋に逗子のデニーズがあって、昔はみんなここに来てデートしてたんだよ!なんて話がされるようになるのだろう。

・跡地は既にどこか外食系の企業が買っていてまたなにかのレストランになるかもしれないというが、逗デニの反対側にはチェーンのスパゲティー屋が出来ているし、なんだか趣はどんどん詰まらなくなっていっているような気もする。

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2009年8月20日 (木)

8月20日(木) 今日は一色海岸でひと泳ぎ。ついにクラゲにやられる。

・やはり今年は去年より海が綺麗なのかな? 一色も浜辺は濁ってるけど、ちょっと沖の岩の所に行くとまあまあの透明度。(濁ってるけど)潮の関係かもしれないけれど水中の白い糸くずみたいなゴミも長者より少なかった。
・岩場の片側は潮が巻いているのか濁りがきついけれど、反対側は割と透明。
・岩場の間には小型ながら黒鯛の10匹ほどの群れ。それに大きい海タナゴ、キュウセンベラ、小メジナ、あとは南の島でよく見るようなアイゴのような小魚、蝶々魚系の魚、ニザ鯛の子供みたいなのだとか割と多くの種類の魚が泳いでいた。
・水は相当にぬるいね!泳ぐ分にはちょうどいいけど。
・長者と違ってクラゲはいないなぁ、これは潮が流れててるからだろうなぁなんて思っていたら、浜に上がってくるところで右足にビリ!・・・浅いところに居た奴に右足のふくらはぎを撫でられた。
・この時期はどうしょうもないのだけれど、子供とかにはちょっと危険もあるな。
・帰ってきて水であらったけれど、ふくらはぎに7cm位ぶつぶつの並んだ腫れが出来ていた。これも夏の洗礼かな?

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2009年8月19日 (水)

葉山 長者ヶ崎 思ったより今年は綺麗だった。

・ちょっと汗を流しに海に行くか、それともプールにするかと迷ったが、もう大崎の鼻には行きたくないし、そろそろクラゲが出てきて海も泳げなくなるからということで、一度は行っておこうと長者ヶ崎へ。
・去年は結構濁りが入っていてがっかりした長者ヶ崎だったんだけど、行ってみたら思ったより水色は良い。まあ南の海の綺麗な海とは段違いだが、逗子海岸よりはずっといい。
・浜辺近くはゴミや白い繊維のようなものが沢山浮いていてちょっと嫌だが、少し泳いで沖の岩場まで行ったら濁りはあるものの、なんとか海中を見ることが出来るくらいの海だった。
・岩場の回りをぐるぐるとシュノーケリングしていると、40センチ以上はありそうな立派な黒鯛が興味をもってこっちに近づいてきた。自分の回りをぐるぐると泳いでからどこかに見えなくなった。その他にも、キュウセンベラ、メジナ、シコイワシ、海タナゴ、それと綺麗なブルーの小さい魚(城ヶ島辺りには良く居るけど)など結構楽しめる位の魚を見ることが出来た。
・潮の流れが変わったのかな? 今年は去年よりは綺麗だ。(この辺にしてはね)
・浜まで泳いで戻る途中でイワシの小さな群れに遭遇。ヒラッヒラッっと体をくねらせて水中のプランクトンかゴミのようなものをついばんでいるようである。これはなかなか綺麗だった。
・森戸の菜島に渡ってもあそこも海草だらけだし、やはりちょっと潜るなら長者がいちばんかな? 人も少ないしね。

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2009年8月18日 (火)

逗子のモーホー・ビーチ やっぱキモイ

・ちょっと暑いんで海にでも飛び込んで体を冷やそう・・・と思ったが、正直今の三浦半島、江ノ島、由比ガ浜、材木座、逗子、葉山、一色、長者、秋谷といった砂浜で泳ぐ気にはなれない。12,3年前は夏でもそこそこに透明度あったし、なんとか許せるくらいの綺麗さだったのだけれど、今の湘南の浜辺は薄緑色に濁った、海の青さなんて全然感じられないビーチだし、ここに体をいれるのもなんだか嫌になってしまっている。海水浴客はたくさん来ては居るけれど。

・長者なら潮の当たりがいいから少しは水が澄んでいるとなっているが、それも昔のこと。さてじゃあどうしようか、と迷いつつ、まあいいや近いんだからサクッと逗子で泳ごう。でも浜辺は汚すぎるから大崎の鼻の辺りに行ってみようということにした。

・流石海水の溜まった浜辺とは違い、ここは岬にあたる部分だから潮通しもよく少しは水色も綺麗だ。でもなぁ、やっぱりここは超有名なモーホー・ビーチ。下の岩場まで降りていくとやっぱりティーバックやらふんどしのゲイが何人か溜まっている。なぜか若いのではなく、40歳後半から50台位の歳をとったホモしかいないというのが不思議。

・サーフィンポイントだからゲイとは関係ないサーファーやその仲間なんかもちょろちょろいるのでいいけれど、サーファーがいなかったら、やはりここで泳ぐのは気持ち悪いな。老人のホモがちょろちょろ見てるしねぇ。

・一応せっかく来たので岩場の先端まで行って水に入る。水中眼鏡をつけて潜ると結構ウニがそこらじゅうにいる。直ぐに10個や20個位拾えそうなほどだ。でもそれをやっちゃうとお縄にかかるから海中で見るだけにする。

・ここもまあ透明度はあるとはいえやはり海水は濁っているし綺麗とは言い難いものがある。それでも一応海でおよいだという気持ちにはなったからいいとするか。

・30分ほど泳いで体を冷やして、岩場に戻ってくるとやはりあからさまなモーホーの老人グループが溜まっている・・・これは気持ちよくないね。

・もう三浦半島、湘南も少しヨットで沖にでるとかしないと綺麗な青い海はなくなってしまったんだなぁと改めて昔を懐かしむ夏となった。

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2009年8月11日 (火)

8月11日早朝 地震の揺れで目が覚める・・・・こんなの初めてだ。

・暑苦しい夜で眠りが浅かったのもあるだろうが、朝方にグラグラと揺れを感じて目が覚めた。ドーンと真下から突き上げるような揺れではなく、ゆるゆると弱く横に揺さぶられるような地震であったが結構揺れは長く感じた。

・三浦半島は割合と地盤がしっかりしているようでここに移ってきてから10数年、今まで地震というようなものを殆ど感じたこともないし、今住んでいる場所でも体に感じるほどの揺れを感じたことって記憶が無いくらいしっかりした地盤の場所なのだが・・・・今回は揺れたな。

・そういえば昨日もちょっと地震があった、あれは茨城の方の地震だったようだが、今朝の地震は伊豆の駿河湾真ん中あたりだという。静岡では震度6だというから相当に揺れただろう。

・昨晩は急に発生した台風9号が本州に接近して大雨という予報だったが雨は殆ど降らなかった。今日の11時頃に関東沖の太平洋を通過するようだが、思ったより雨は振らないのではないか?

・たぶん今日の午後は台風一過でかなり暑くなるだろう。

・それにしてもお盆休みの週にこんな地震やら台風がくるなんて。

・この時期は伊豆諸島、大島の岡田などには多くのヨットが夏のクルージングで集まっている。伊豆諸島の港に係留しているヨットやクルーザーにはたぶん地元の消防署が避難警報を出し、ヨットマンたちはもやいを固めてから高台に逃げているのではないだろうか?

・何人か知り合いも島に行っていると思うが、何事も無ければいいが・・・・。

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2009年8月10日 (月)

鎌倉花火大会中止・・・がーん、まあこの台風じゃ仕方ないか。

第61回 鎌倉花火大会は中止

平成21年8月10日(月)に行う予定であった鎌倉花火大会は中止となりました。

したがって、翌朝の清掃活動もございません。

また、花火の順延はありませんので、ご了承ください。 市民経済部 観光課

Photoだって・・・。朝から気になってはいたのだけれど。
台風9号って発生してから日本に近づくのに1日位しか掛かってない。これ早すぎ。以前は南海上で発生して4,5日してから日本に来てたんだけど、これも異常気象なんだろうか?
鎌倉の花火は結構盛大にやってくれるし、良いポイントから見ることも出来るので楽しみにしてたんだけど、仕方ないねぇ。市としても大規模なイベントだから警備やなんやらで簡単に順延は出来ないのだろう。
花火業者の人は作った何千発の花火代を市に補償してもらうのかな? 市は保険とかにも入ってるだろうね。でも使えなかった花火ってどうなるんだろ? 次の逗子の花火大会に流用してドンパチやってほしいけど・・・無理だろうなぁ。

由比ガ浜や鎌倉の通りのコンビになんかは売上時とばかりにビールや焼き鳥やなんやらたくさん仕込んでたんだろうけど・・・大打撃かな?まあ冷凍して保存しておけばなんとかなるようなものばかりだろうけれど、普段の何倍かの売上を期待していたらおじゃん。お天道様には敵わないけれど、悲しいだろうな。たぶん海の家なんかも・・・・。

飲みにでも行くか。残念至極

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2009年8月 9日 (日)

8月8日(土)今年初の相模湾オフショア・ルアー船 

Imgp0241・先週末に台風8号のうねりが相模湾にも入ってきて、大島沖にあった黒潮側流の25度の海水域が一気に城ヶ島まで接岸した。これでようやく相模湾が夏の海になった。

・今年の相模湾はかこ10数年で最悪の状態であったから、これからが期待できそう。

・鰹20本、ペンペンシイラ多数、インチクでアラ一匹・・・・

・暑かったねぇ、空は秋のような雲だったけど。あれで入道雲でてたらホントの夏だった。

・久しぶりに食べる獲れたての鰹はやはり最高でした。

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2009年8月 7日 (金)

八月六日(木)藤沢で飲み。台風のうねりと月明かり。

・kさんと藤沢駅南口のお店で飲み。
藤沢までだといつもならバイクで行くのだが、流石に飲みを前提としてるからバイクでは行けない、かといって電車で行くのもおっくう。大船で乗り換えるのも面倒だし、なかなか都合良く電車はこないし。
・思い切って自転車で藤沢に行くことにする。買ってから全然使っていなかった折り畳み自転車を取り出し、空気を入れる。もう五年くらいほったらかしなのに、バッテリーライトはキチンと点灯した。
・海沿いの134号を走って小動から藤沢に上がっていく道を走ることとする。
・バイクならだいたい30分 10キロ位の距離なんだけど、自転車だと約一時間かかった。小さな自転車でタイヤも小さいし、ちゃんとした27インチの自転車ならもう少し早いかな?
・台風八号のうねりが相模湾にも入ってきていて七里の辺りはサーファーが一杯。なぜか入れ墨ガンガンにしてる連中ばかり。ちょいと不気味だねぇこの入れ墨は、その筋に人間って感じで。
・バイクなら感じないちょっとした坂道も自転車だとしんどいね。けっこう汗もかいた。バイクだと測道を走っている自転車がじゃまに感じるけど、今日の自分はスピードもゆっくりで測道を走ってたから後のバイクを何台も前に通してやった。
・藤沢でビールとお魚を味わって帰宅の道へ、藤沢からの帰りはどちらかというと下りが多いから来るときよりも楽。
・134号の大崎下のトンネルを抜けて逗子海岸に西端に出たら、満月が夜空に浮かんでいて、逗子湾がきらきらと月明かりに輝いていた。うねりがゴーっと入ってくるとその波頭が煌めいていて、幻想的な美しさ。映画のグランブルーで観たことのあるような夜の海の美しさだった。
・まだなんとか綺麗だなこの辺は、こんな風景をたまに見つけることが出来るんだから、ほんと映画になりそうな月明かり、波、うねり、浜の美しさだった。

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2009年8月 5日 (水)

8月4日(火)江ノ島花火大会・・・やはりでかいなここは

・昨年の来場者が約14万人という発表。駅から近いし、都心からでも楽に来れるというのも人気の理由であるが・・・ホントに人だらけ。どこからこんなに人が来るのってくら片瀬江ノ島近辺は人人人・・・。
・片瀬川から西浜ビーチの辺りはもう日中から場所取りされてるし、江ノ島水族館辺りまでは歩道も一杯。確かにこの辺りが一番打ち上げ場所に近いんだろうけれどね。
・少し辻堂の方に歩いていくと、びっくりするほど人が居なくなる。歩道もがらがら。江ノ島の花火は片瀬川の近くと辻堂側と打ち上げ場所が二カ所あって、辻堂側の方は地元の知ってる人しか来ない。遠くから来た人はみんな水族館辺りに溜まってる。
・確かに辻堂側から観るとちょっと花火が目の前ってわけではないのだけれど、それでもけっこう手前で障害物無く打ち上げ花火が全部見れる。
・椅子を持っていってゆっくり眺めてたけど、やはり江ノ島の花火は凄いね。湘南エリアじゃ最大だろうから。
・二尺玉かな? あの大きさと音は凄い。観客がみんな歓声を上げてる。
・ラストの連発もいつも通りすさまじい光の絨毯が空に広がる。やっぱりこれだけ打ち上げてくれると嬉しいよね。
・今年の夏は、あとは鎌倉、逗子、西区と三つ残ってるからもう少し花火を楽しめるだろうけど、やはり江ノ島花火は凄いなと再認識。
・鎌倉、逗子は打ち上げ場所と観るところの近さでアドバンテージかな? 頭の上でどーんはやっぱりいい。

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2009年8月 4日 (火)

開高さんが最後に見ていた湘南の海、烏帽子岩

   ●今から二十年前、1989年3月、開高さん(自分もさん付けで呼ばせてもらおう)が喉の病気で入院した。手術治療後 7月末に退院してから、リハビリを兼ねて自宅からラチエン通りを茅ヶ崎の浜辺へと歩き、海沿いの散歩道をこの場所まで来ていたということを本で読んだ。

●その頃この浜辺の小さなどぶ川のようなところに地元の漁師が一升瓶の箱を椅子代わりにおいて、開高さんはここまで歩いてくるとその椅子に座って海を眺めていたという。

Kaiko3_2

Kaiko2

●10月に絶筆となる『珠玉』を書き終えた後、この場所まで歩いてきて、この海を見て「また入院する、二三週間で戻ってくる」と言ったという。

●二度目の入院の直前に、この場所で、この海を見て、開高さんは何を思い何を感じていただろう。開高さんは入院し病状が悪化し帰らぬ人となった。ここに座っていたときも体が震えていて、末期に近いことははた目にも分かったという。

●病状の悪化は自分でも分かっていたであろう。それでも、モンゴルの夢、チンギス・ハーンの墓を探すという夢のためにここまで歩いてくるリハビリをし「また戻ってくる」と行って入院した。開高さんの気持ちは死ではなく、新しい夢を見ていたのだろう。

●二十年前の10月はどんな空だっただろう? 二十年前開高さんが見ていた海はもっと綺麗だっただろう。でも目の前に見える烏帽子岩は今と全然かわりなかったんじゃないかなぁ。

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●開高さん歩いてきていたこの場所のことは本で読んでもどこかが分からなかった。ラチエン通りから海に出て右にも左にも小さな川はあるし、どっちのことかも分からなかった。でもどうしても開高さんが最後に座っていた浜辺の場所へ、開高さんが見ていたのと同じ海を自分も見てみたいと思った。

●開高さんの水泳のコーチをされていて、この場所のことを語っていたHさんにメールをしてみた。なんの面識もなかったのだけれど、Hさんは直接電話を下さって、この場所のことを教えてくれた。本当に有難うございます。Hさんにとっても開高さんは思い出深い人なのだろうと思う。

●浜辺にはたぶん当時と同じ地引網の小屋と船があった。

●海ではボディーボードの練習をする女の子、波打ち際でそれを見ているウエットスーツを着た女の子が居た。

Kaiko1

Kaiko6

●二十年前、この場所に開高健という人が来ていたことも、この直ぐ近くに小説家の開高健という人が住んでいたことも、いや、ひょっとしたら開高健という小説家の名前すらもこの女の子たちは知らないかもしれないんだなぁ。二十年前の人なんだから。

●たくさんの水が橋の下を流れたと開高さんは言ったけれど、この海辺のちいさな場所はたくさんの時間が流れたけれど、二十年前とあまり変わっていないかもしれない。

●風景を取り巻く色々なものはたくさん変わってしまったに違いないのだろうけれ

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8月3日夕方の砂浜で音霊から流れる音楽を聴きながら夕涼み

・夕方近くに砂浜をぶらぶらしていたら今日は音霊で一青窈のライブがあるというのを耳にした。そっかぁ、それじゃあ前の砂浜でビール飲みながら音霊から流れてくる音楽を聴いて夕涼みでもしよかなと急いで家に戻る。

・クーラーにビールと氷を詰めて、7時頃音霊の前に行くともうライブは始まってて音楽はがんがんに流れてきてる。一青窈の声も聞こえてきている。

・音霊の前には何人くらいかなぁ? 30人位の人がシートを広げて野外無料ライブを鑑賞してた。まあ本当は中に入ってというのだろうけれど、地元民はけっこうみんなここにこうして夜やってきて夕涼みしながら流れてくるライブの歌を聴いているってのもあるね。これも地元の特権かな? ささやかではあるけれど。

・ビールを飲みながら波の音を聞いて、背後から流れてくる一青窈の唄を聴いて、ライブハウスの中とは違ってのんびりムード。7時過ぎると風もひんやりして夏とは思えない涼しさ。でもこの感じが心地良い。

・「はなみずき」を聞いてみたかったけど、最後までなかった。自分が来る前にもう歌っちゃったかな?いや、一青窈の代表曲だしな、みんなそれを期待しているから敢えて外したのかな? それでも1時間ちょいビールを飲みながらの浜辺で良い時間を過ごせた。

・打ち寄せる波は青く眩く光っている。夜光虫がかなりいるんだろうけど、これはこれで綺麗だった。あまり綺麗過ぎるとこういう夜光虫の光はでないものだけど、まあ見ている分には結構幻想的で良い感じ。

・東海地方は昨日ようやく梅雨明けということだけど、関東はどうなるのかな? 思っていた通りで梅雨明けが事実上特定されなかった1993年を除き統計上最も遅い梅雨明けだという。当会地方では例年よりも22日も遅いとか。 関東は今日もどんより。8月中旬だろうか、本当の梅雨明けは。

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2009年8月 2日 (日)

8月1日 横浜花火大会 ちょっと遠くから鑑賞

・毎年7月20日の海の日に行われていた横浜開港記念花火大会が2009年は中止に。主催者側の発表では人が増えすぎて危険になったということらしいが? 逆に地方で行われていた花火大会は財政難だとか不景気という理由でどんどん中止になって行っている。都市部と地方の格差・・・日本は相当広がってきていると感じずにはいられない。

・友達に誘われて神奈川新聞主催の横浜花火大会を観ることに! ちょっと離れたマンションから観ると言うことで、4時に集合。そこから飲み始めて花火開始が7時過ぎだったからもう酔っぱらってしまった。

・花火はやはりちょっと遠かったけど、ビルの谷間から大輪の花は観ることができた。臨港パークで観ていれば相当でかくて迫力あっただろうけど、朝から場所取り、ものすごい混雑という状況だろうから、そこには行きたくないしね。

・打ち上げ花火の本数、大きさなどは都心部の集客力のある花火大会には敵わないのだけれど、地元の海でお気軽に座れて、頭の真上で花開く花火を観ているほうがいいね。鎌倉、江ノ島の花火はそこそこ数も多いし人も来るけど、やはり逗子の花火がいいかな? 今年の葉山の花火はなんだかしょぼかったのだけれど。
・随分飲み過ぎた。

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2009年8月 1日 (土)

2009年夏・・今年は凄い冷夏なんじゃないだろうか?

・今日から八月だというのに、涼しい。梅雨明けは例年通りだったのに、その後雨が続いて、気象庁も梅雨明け宣言を撤回するかなんて言ってた。実際7月後半は雨が多かった。
・日差しが強くて今日は暑いなという日もあるにはあったが、毎日続かない。翌日には曇ったりしてる。すると汗もかかないほどの陽気になる。
・コンクリートジャングルの東京は暑いだろうけれど、海辺は非常に過ごしやすい。いままでこんなに涼しい夏ってなかった気がするけれど。
・実際、今年はまだエアコンを使っていない(異常だ!)窓を開けて、暑い夜も扇風機で充分に涼しく眠れる。まあ一晩エアコンというのは体に悪いからやらないのだが・・・それにしても涼しい。
・昨日、7月最後の日なんか夜は半袖でいると秋のような涼しさだった。寝るときも扇風機すらいらない。これでは9月下旬の陽気である。
・よく分からないけれど、今年の夏って戦後何十年とか気象庁観測以来っていう記録的な冷夏なんじゃないだろうか? 涼しくて過ごしやすいのはいいのだけれど。

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2009年7月28日 (火)

OASISライブをちょっとのぞいて見る。 7月27日(月)

・夕涼み・・・といっても今年の夏はそんなに暑くはないのでまあ気分転換で森戸までぶらぶら。ホントに7月後半に梅雨が戻ってきたみたいな天気が続いている。あまり暑くないから楽ではあるけれど。それでも都内に行けば蒸し暑いだろうなぁ。

・夕暮れ頃まで森戸川で釣りしている人をながめていたら、オアシスから音楽が流れてきた。なんか今日はライブがあるようだ。 流れてくる音楽はボブ・マーリーのタイム・ウィル・テルだった。とっても好きな曲・・・引き寄せられるようにオアシスの方に歩いていく。

・WADADAというレゲエのグループのライブのようである。せっかくだからビールを飲みつつ音楽を聴くこととする。雨が上がって割りと涼しい夏の夜。こうしてビーチでライブ演奏を聴くのはいい気分。月曜ということもあるし、森戸は交通の便もよくないからこういうライブだけど人もそれほど多くない。プライベート・ライブという感じ。それでも音楽にあわせてレゲエ・ダンスを踊ってる様子はなんだかいかにも夏という感じで心地いい。

・ビキニ、ラスタカラーの帽子、オリエンタルなビール。都会のOLとはまるで違う女性たち。こういう生き方もいいよなぁなんて思ったりして。

・昔池袋にあったキングストン・クラブを思い出した。

・橋のところのベンチでは黒人の男女数人が雑談してた。こういう森戸もなんだか不思議な世界。

・ビール2本、カクテル2ハイのんで良い気分。籠のなかにバラ売りタバコがあって、久しぶりにガラムなんて吸いたくなって探したら、ありました。一本20円。しかし昔の葉巻のガラムじゃなくて、紙巻の普通のタバコのようなガラム。味はまあ変わりないけどこれは雰囲気がちょっと違うな。舌にベトッと乗っかるようなガラムの甘ったるい煙を味わい、カクテルでそれを洗い流す・・・昔はこういうことしょっちゅうしてたけど。

・暫くしたら特別ゲストとしてランキン・タクシーが登場。懐かしい、まだ活動してたんだぁ、昔のサンスプラッシュかジャパンスプラッシュに出てたなぁ。あのころは川崎休場や晴海、それから横須賀なんかで行われてたレゲエ屋外フェスにか必ずいってたけれど、最近はそういうのもなくなったしなぁ。(横浜レゲェ祭りくらいかな残ってるのは)

Photo_2・ドリンク4杯にドネーションで3000円!ふらりと寄っただけだったんだけど、普通に飲んでしまった。

・その昔はボブ・マーリー・ナイトなんてのもやってたし、数年前は最終日のライブで駐車場のことやら騒いでる連中のことで問題になったりもしたけど、ここはここで海のライブハウスの老舗として続いているなぁ。毎年必ず来ていたオアシスだけど、ここ二三年は行ってなかった。まあまたなにかライブがあったら来て見ようかな?

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2009年7月26日 (日)

特別紅茶会 開高健の代表作『夏の闇』の翻訳秘話を語る 7月26日

・開高健記念館で不定期ながら毎月末に行われている読書会 今回は特別紅茶会として、

開高健の代表作『夏の闇』の翻訳秘話を語る

が催された。

出演者 セシリア・瀬川・シーグル(「夏の闇」翻訳者 元ペンシルベニア大教授)

      坂本忠雄(開高健記念会会長、「夏の闇」 新潮社担当編集者)

      野崎美子(女優、演出家) 読書会の朗読を担当。

*会場には三田文学の編集者で開高健氏とも懇意であった藤本和延氏の姿も。

*オーパを作った人も来ていると坂本氏が言っていたがこれは藤本氏のことを言ったのだろうか? 勘違いされていたのだと思うが?

・もう30年以上前に『夏の闇』の英語翻訳に当たってセシリア・瀬川さんが苦労された話、開高健と170通にも及ぶ手紙のやりとりがあったという話など、今まで知ることの出来なかった逸話を聞くことが出来、非常に有意義な時間であった。

・セシリア・瀬川さんも開高健と年齢は一つ違いということで、もう80歳近い、しかしさすがと思わせる気品を纏った方であった。それでいて話はユーモラスなところがまた素晴らしい。これも人間性のあらわれか。

・始まって直ぐに、開高健記念会がセシリアさんの住む米国まで赴き、撮影してきたという映像が数分間流された。米国で撮影してきた「夏の闇」の翻訳に関わる逸話などの映像を全て編集して開高健記念館で上映するという・・・・早く観て観たい。

・セシリア・瀬川さんが持っていたという開高健との170通にも及ぶ往復書簡も今回全てコピーされ日本に持ち帰られたという。きっとこれは開高健研究の大きな資料として近い将来書籍として発売されるのではないだろうか?そう思った。

・1時間は余りにも短く感じた。もっともっと色々な話を聞きたいと思ったが、それはやむなし。生前の開高健と関わった人たちの中にたくさんの思い出話が積み重なっていることだろう。今の自分にはその一部でも書籍や講演会で知ることが出来るというだけで充分に幸せなのだから。

・開高健記念館が出来たのが2002年、もう7年も前だ。たくさんの人が紅茶会で開高健の思い出を語ってきた。自分は今までこんなに近くに住んでいたのに、一度もその場に参加することが無かった。その頃の自分の興味は別のところに向いていたからなのだけれど、今にして思うと後悔至極である。高橋昇の話も直接聞いてみたかった・・・。それでも今日こうして久しぶりに行われた紅茶会で生前の開高健を知る人からとても面白い話を聞くことが出来たことはとても嬉しい。こういった催しが後何回行われるかわからないけれど、今日の会に参加できたことは自分にとってとても大切な思い出となることだろう。

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2009年7月25日 (土)

夏の日、強い風と日差しの下でビール! 酔った焼けた 7月25日(土)

・知人が昼に来るということでそれなら外で飲もうとビールを買いクーラーボックスで冷やして待つ。

・駅まで迎えに行ったら市役所手前まで渋滞中。なんだか似たような感じで電車で来る知り合いを駅でピックアップするとう車が多いようだ。全然車が動かない。

・知人を拾って戻ろうとしても今度は逆方向も大渋滞・・・溜息。

・最初は浜に椅子を持っていって飲もうかと思っていたが、風も強く、たぶんこの状況だと砂粒がバンバン飛んでいて肌に張り付き不快だろうと思い、葉山の堤防でのんびり飲もうということにする。

・昨日までの雨が上がったのはいいが、日差しはさすがの夏で非常に強い。風も強いから暑さは感じないのだが、なかなかの夏の日である。海ではシーカヤックの一団やヨットが風にあおられて浮かんでいた。

・350mlの缶ビール18本を二人で全部飲んでしまった。一人9缶・・・かなり酔った。でも気持ちがいい。海の家でビールを飲んだら今は一缶400円とか500円も取る。スーパーで買えば115円。この差はでかい。金麦とジョッキ生(発泡酒だが)を買っていったのだが、太陽の下で飲み比べるとジョッキ生の方が美味いな。結構これまでは金麦も好きだったんだけれど。

・3時間位あれこれ人生、将来、今の日本など言いたいことを言い合い(こういう話は飲み屋とか他の人が居るところだとやりにくいから、太陽の下ってのがよかった)へべれけに。Photo

・飲み足りないということになり大船に向かい5時過ぎに「網代一菜」に!開店直後というのに中には常連が数組居た。6時過ぎになると予約客でいっぱいになるだろうけれど5時ちょいだったので余裕で座れた。

・刺身盛り合わせとビールをさらに頼んで、もうグロッキー。飲みすぎふらふらで帰宅。

・こういう土曜日もいいだろう。

・若い頃は浜辺でビールを飲むことがかっこいいと思っていたし、いつもやっていたのだけれど、最近は浜辺は肌がべとつくし、砂粒が付くし、騒々しいから浜で飲むことは余りしなくなった。暑い夏の日に家の中で飲む気もしないし・・・。幸いこの辺りは隠れた場所にいいのんびりスポットがあるから助かるね。

・今年の夏は暑いようで全然暑くない。雨も多い。それはそれで助かっているけれど。

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2009年7月24日 (金)

品川駅 駅ソバ・・・高い! これじゃもう食わないな。

・品川駅の立ち食いソバ、常磐軒とかいうのかな? 少し汁が甘くて立ち食いソバとしては好み! 朝とかはかなりの人が入っていて一日の客数は日本でもトップクラスなんじゃないんだろうか?
・品川駅コンコースが立派に改装される前、もう5,6年前かな? その頃は今ある京浜東北線の階段上の場所ではなく、もっと奧にあったっけ。今の店は狭いけど、昔はもっと広くて、木造のテーブルとかで、なんだか東海道の品川の蕎麦屋って雰囲気もあって好きだったんだけどね・
・ということで久しぶりに品川で駅ソバを食べてみようと思った。しかし、なんじゃこれ、スゲー値上がり。調べたら去年の原油高騰の頃に大幅値上げしたということだけど。
・以前は確か、かき揚げ天ぷらソバ、うどんが380円、これにお稲荷二個120円の付いたセットが500円で、ワンコイン、なかなかこれが良かった。お稲荷を半分位食べてから蕎麦つゆに漬けてて食うなんて言う漢な食い方も美味かった。
・それが、久しぶりにのぞいたら、500円→570円に値上がりしてる。おいおい、いくらなんでも10%以上の値上げは異常じゃないの?
・かき揚げ天ソバ、うどんが380円→420円に・・・おいおい、駅の立ち食いソバでこの値段は高すぎだろう・・・と、思う。お稲荷さんも120円→150円に値上げ・・・これでかき揚げ天、いなりセットが570円、おにぎりは100円→130円に・・・これでセットだと550円。
・んー、立ち食いソバにお稲荷が付いたとはいえ、570円は立ち食いソバに非ずだと思う。早くて安くてが立ち食いソバでしょう。
・それにここのかき揚げ天ぷら・・・昔はエビ(オキアミか?)だとかタマネギなどの野菜がそこそこ入っていたんだけれど、今はほとんど小麦粉の固まり。小麦粉の上げたものの中にちょこちょこっと野菜みたいなのが見える程度。酷い。
・これじゃ、素うどんに油を染みこませた小麦粉揚げを乗っけて売ってるようなものである。
・不景気、諸物価高騰とはいえ、このコストダウン、値上げはちょっと甚だしいのではないだろうか? タレの味は好きだけれど・・・もうこんな駅ソバ食べるのはよそう。570円払って食うものではないな。
・たいした金額ではないんだけれど、たいしたことない金額にだってそれ相応の価値が無ければ金を支払う気にはなれない。
・なんだか品川名物の立ち食いソバ屋が実に殺伐としたどうしょうもない店に変貌してしまったようで、世も末だなんて思ってしまうのであった・・・極端か?

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2009年7月23日 (木)

7月23日木曜日 葉山(森戸海岸)花火大会・・・ん???

・森戸海岸の花火大会は好きである。メジャーな鎌倉や江ノ島などの花火大会、逗子でもそうだが、あちこちから人が集まってきて、珍走族みたいなのやら、ヤンキーみたいなのが来て騒ぐ姿が目に付くが、森戸の花火大会はそういうのがまるで居ない。ホントに地元民だけの花火大会という感じがイイ。

・駅からも遠いし、バスの便も悪いし、必然的に歩いてこれるような地元の人が多くなるわけだが、だからこぢんまりとしていて、ほんわかりんとしていて大好きである。

・しかし、今年の花火は今一つだった。打ち上げ場所がかなり沖合で、花火が小さいのである。海辺に住んでいる利点として夏の花火大会を間近くで見られるというのがある。それなのに、今年はなんであんなに遠くで打ち上げてるんだろう。

・いつもの年ならすぐ目の前の海で打ち上げていて迫力満点な花火大会なのに。これも行政の事なかれ主義の危険回避策か?
・特に森戸の花火大会はラストで船外機の船が浜辺近くに水中花火を走りながら落としていってそれが次から次へと水面で花開くのが美しかった。それなのに、今年も水中花火はあったけれど、沖合で打ち上げといっしょにやっているだけ。最後の水中花火を投げ込む船は現れなかった。
・45分の花火大会、正直ポツンポツンという打ち上げ方で、それは田舎っぽくていいのだが、迫力は少ない。ラストで少し連発してくれはしたけれど。打ち上げ本数が少ない分、近くでやってくれれば迫力がでるのにねぇ。
・なんだか今年の花火は今一つでつまらなかった。
・そう言えば思い出したけど、5,6年前も花火の打ち上げ場所が変更されて、真名瀬の沖合で打ち上げたことがあった。森戸川の辺りから見ていたら、神社の森に花火が隠れてしまって全然楽しめなかった。それが二年続いたかな?二年目は真名瀬の方から見たけれど、遠くてこれも今一つだった。
・なんだか打ち上げ場所がたまに変なところに変更されるのが森戸の花火のようだ。
・葉山町の議会とかで「なにかあったらどうするんだ、もしものことがあったら大問題にある、打ち上げ場所をもっと岸から離せ」なんて言ってる人がいるんじゃないかねぇ? せっかくの田舎の花火大会がこれじゃあ全然つまらないよ。

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2009年7月22日 (水)

『ヨーッロッパの白い窓』高恵美子著・・・古書を手に入れて読んだ。

・開高健氏にまつわる女性の話題はそこそこある。それでも他の作家や芸能関係者などとは違ってあまりドロドロとしたものは感じないのが不思議だ。文筆家なんて大概、二号三号なんているものだけど、開高健氏の場合はなんだかそういうのとは違って思えるのだ。

・「わしのは性交じゃない、情交なんだよ」と言ったという話だが。

・「夏の闇」のモデルとなったと言われる佐々木千世という女性。この女性は留学先のドイツから日本に帰国していたとき大学教授と夜のドライブ中交通事故にあい死亡したという。

(彼女の著作である「ようこそヤポンカ」を読んでみたいと思うがなかなかもう中古でも無い)

・そしてもう一人、高恵美子という女性。毎日新聞社から発売された追悼本「ザ・開高健 巨匠への鎮魂唄」に若かりし頃のパリで撮影されたであろう20代の頃の高恵美子の姿が小さく出ているが、これを見ると岸恵子似のかなりの美女だったという話にも納得する。日本に帰国後、朝日新聞社発行の『風』誌の編集長を務め、映画「愛と悲しみのボレロ」のノベライズを書いたり、才色兼備の活躍をしていたという。そして、開高健とも互いに思いを寄せ合っていた・・・らしい。(この辺りのことは「ザ・開高健」や「面白半分の作家たち」佐藤嘉尚 に色々と書いてあり、確かゴーギャンかサライの開高健特集にも書いてあった。)

で、細かいことは省くが、開高健とこの美女、高恵美子という人は胸に秘めつつもお互いを思いあっていたように思われる。

・そして開高健が死んだ翌年、高恵美子は自ら命を絶つ。

・今回、高恵美子という人はどんな文章を書いていたのだろうと思い「ヨーロッパの白い窓」を手に入れて読んでみたのだが、最初の章であるフランスの散歩道を読んで愕然とした。

「そういうわたくしも三十代になった。もう、わたしくはセーヌ川をわざわざ見に行ったりなどしない。川が、まぎれもなくそこに流れている。それを知っているだけで充分だ。いつか、四十代をむかえたわたしの目に、セーヌは、どんなふうに映るだろうか。シャンソンに歌われているように、セーヌ川が心の内なる全てを打ち明ける相手になっているのかしら…。そのときのために、孤独を怖れず三十代をより充実させて生きることにしよう。そして、わたくしに晩年がおとずれ、死を目の前にしたとき幸運にもパリにいることができたら、人が生きようが死のうが、おまえは頓着しないで流れているね、とセーヌを呪って呟くだろうか。」

こんな文章で最初の一章は締めくくられていた。開高健への思いを明かすこともできず、内に秘めたまま、いやお互いにその思いを抱いていることを知りつつも言葉にせずに生きていることを、高恵美子は胸を締め付けられるような思いで苦しみ耐えていたのではないだろうか? そんな言葉である。

パリに来た開高健とセーヌ川で小物釣りをした思い出。学生時代から20代の留学時代まで続く憧れと恋心を、その思い出のセーヌ川を、彼女は呪うかもしれないと言っている。

自分の命を絶った美しい女性の苦しく辛い思いが、この本の冒頭にしっかりと書き綴られているような気がした。もちろんそれは自分の邪推かもしれないけれど。

・佐々木千世、高恵美子と開高健に関わった美しい女性が二人とも悲しい死に方をしている。

・そして1994年 父、開高健の娘、開高道子も踏切事故で命を落としている。事故か自殺かと騒がれたが、娘開高道子も父の後を追ったのであろう。

・さらに2001年開高健の妻である牧羊子が自宅で倒れ死んでいるのを発見される。死後一週間が経過していたということだ。

・もちろん開高健と知り合った女性はもっといるだろうけれど、偉大なる巨匠、開高健に関わった女性が、4人も悲しい死に方をしている。大いなる小説家の大きな力は、周りの女性の死までも引き寄せてしまったのだろうか?

・高恵美子という美しく才気溢れる女性が、自殺したということ・・・・このエッセイを読んでいたら、高恵美子はこの本を書いているときどんな思いで文字を綴っていたのだろうと、胸が苦しくなった。

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2009年7月21日 (火)

土用の丑の日 一日遅れで 鎌倉「茅木屋」鰻!

・やっぱりなんだか鰻が食べたくなり鎌倉へ! 鎌倉、逗子、葉山辺りは結構あちこち鰻屋があるけれど、二の鳥居近くの「茅木屋」は味が好き!反対側の「淺羽屋」は入ったことなし。観光団体さん向けって感じだし。佐助の「うな豊」は少し味が薄め。昼の定食はちょうどイイ値段と量。「つるや」は一度ふらりと入ってしまってマジで1時間待ったので、なかなか行きにくい。予約しとけばいいんだけれど。
どちらかと言えばはっきりした味が好きだから「茅木屋」が好みか。「つるや」のように注文を受けてから捌くというのは凄いんだけれど、「茅木屋」の注文して10分位で出てくるのだって充分うまい!麻布の野田岩もそんなに時間掛かる訳じゃないし、店のこだわりに付き合うかどうかってことだろうね。だけどそこまでの違いってのもなかなか出ないしよっぽど食べてないと分かりにくい。気楽にサッと行って美味しく食べられるというのが自分には一番。確かにもっとふかふかで口の中で溶けてしまうようなのもあるけれど、歯ごたえある方が好きだし。
・先日横浜高島屋の中にある「野田岩」にも入ったけれど、なぜか御飯が凄く熱くて鰻と一緒に口に掻き込んだら鰻の味が分かりにくかった。

・鰻も店によってほんとに味が違うから難しいけれど、あちこち迷うのも楽しいか。

・横須賀の千年屋というのは行ってみたいかな?

・逗子の「うな藤」はお店がほんとに小さくなっちゃったしね。葉山の川正はランチあるけれど、流石にランチだからほんとに小さい鰻がちょっとが載ってるって感じ。ランチじゃなくてちゃんとしたのを食べた方が良いかも。
・三島の「桜屋」や「うなよし」も美味しかった記憶アリ。
小田原や国府津の「うな和」とか鴨宮の「正直屋」小田原の「鰻昇」は行ったこと無いけれど食べてみたいものだ。
・今までこれは美味いなと思ったのはやはり「野田岩」それと以前小田原のメガネスーパービルの向かい側にあったおじさんとおばさんがやってた
「川治食堂」はみんなで芦ノ湖の帰りに寄ったけれど美味かったなぁ。しばらくして行ってみたら店が見あたらないので調べてみたら、おばさんが交通事故で亡くなって閉店してしまったということだった。話し好きで好い感じおばさんとおじさんで、良い店だったのだけれど。残念。

・名古屋の錦橋たもとにある「宮鍵」のひつまぶしは本当においしかった。店も古くていい感じだし。最後にお茶漬けにするのだけれど、急須に入ったお茶をかけたら全然おいしくない。なんだこりゃって思ってたら仲居さんが出し汁を持ってきて「これでお茶漬けにするのだよ」と言われた。確かに出し汁掛けたらめちゃウマだった。これはちょっと恥ずかしい思い出。

・若い頃出張で浜松に行ったとき近鉄か遠鉄ビルの隣の鰻屋がいいよと教えられてそこで食べたうな重の二段盛りは凄かった。ご飯の下からまた鰻が出てくるんだもんなぁ、あれにはびっくりそしてめちゃくちゃおいしかった。あの店ももう今は無いんだろう。

・伊東の松川湖側にある「福也」の鰻は知る限り一番の変わり種。山椒じゃなくて、本山葵を卸してそれを付けて食べるというのも変わっているし、兎に角鰻がプリプリと銀ムツみたいな弾力感がある。蒸したりせずそのまま焼いてるからこうなるのか?スタンダードな鰻とはまったく違う変な鰻丼・・・でも美味しい。

・こんなこと書いてるときりがないけれど、今吉野屋で550円でやってる鰻丼セットもお腹がすいてなんか鰻を食いたいという欲望を満たすにはまずまず。まあ鰻がホクホクなんてことはまるでないけれど、タレがね一応鰻のタレだからこれも鰻丼なんだなという味はちゃんとします。ゴムという程酷くもないし、食べてる気持ちにはなれる・・・・まあこれも一考でしょう。笑 中国産かもしれないけどね。

・今年は二の丑という日もあるらしい。日本の風習、文化は難しいねぇ。この歳になって初めて知りました。
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なんだかいつも土用と丑の日を理解しないままだから川口水産さんの解説ページを引用させてもらおう。これで今後は分からなくなってもここを見ればいいかな。
---まず土用とは---
・昔々、世の中の全てが木火土金水の五つの組み合わせで成り立つという五行説を季節にも割り振ることを考えた人が居たみたいですが、昔も今も季節は「四季」で「五季」とはいいませんから、

木−春 、火−夏 、金−秋 、水−冬 、土−??? と割り振ったら「土」が余ってしまった。そこで、「土の性質は全ての季節に均等に存在するだ!」とこじつけて、各季節の最後の18〜19日を「土用」としました。(これで1年の日数が均等に五行に割り振られたことになります)。
・今は土用というと夏だけですが本来は全ての季節に土用があります。 土用は季節の最後に割り振られるので「土用の明け」は次の季節の始まる日の前日。(夏土用は、立秋の前の日に終わる)。異なる季節の間に「土用」を置くことで、消滅する古い季節とまだ、充分に成長していない新しい季節の性質を静かに交代させる働きをするそうです。
「丑の日 」
・丑の日の「丑」は十二支の「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の丑です。
各土用の中で丑の日にあたる日が「土用丑の日」、一般的には「夏土用の最初の丑の日」に鰻屋の祭り「土用丑」と称して鰻を食べる日ということになっています。
2回目の「土用丑」は皆疲れているのか、飽きるのか、あまり盛り上がらない。

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2009年7月20日 (月)

7月19、20日 松川湖 BBQ 海は大混雑

・7月19日 11時過ぎに伊豆に向かう。海沿いの134号はそこらじゅうで渋滞。バイクでなければ移動は無理だなぁ。あちこちの駐車場もずっと長い列。ここに並んでいる人は何時間後に車を駐車場に入れられるのだろう? なんだかなぁ。

・鴨宮の辺りでまたまた渋滞、何かとおもったら乗用車がひっくり返っている。中に人がいるようで消防車や救急車が来て救出しようとしていた。居眠り運転かなにかでガードレールにぶつかりそのままひっくり返ったのだろうか?

・小田原辺りでは神社のお祭りでお神輿が出ている。これでまた渋滞。

・3連休だし、夏休みだし、そりゃ海だとなるんだろうけれど・・・・ほんとなんだか改めて遠くから海に来てる人は大変だなぁと思ってしまう。

・松川湖で少し釣ろうと思ったらログ前にいつもの常連がうだうだ。渓流を少し叩こうと思ったけれどBBQまでの時間もあまりないので、ログ下の流れ込みだけちょっと叩いてみようと下りてみたが、子供たちがバシャバシャ大騒ぎ。30センチ位の虹鱒を掴んでる子も居たけれど、これじゃ釣りなんてとても無理。やはり朝、夕の一時だけしか夏は釣りにならない。それだけの為に100キロ走るわけにもいかないし、こういう状況では近くに住んでいる人しか楽しめないね。海の近くに住んでいる自分と同じことだなぁと山は諦めた。

・6時過ぎから宴会。BBQとはいえ、ちょっとバラ肉焼いて、サザエ焼いて後は出来合いのものを食べながらビール、焼酎、ウイスキー。

・低気圧か前線が伊豆半島を通過したのか夜はかなりの強風。そして雨もぱらぱら。涼しかったから良かったけれど。

・飲みすぎていつの間にかダウン。テントに転がって寝てました。

・朝起きたらかなりの日差し。今日は今年一番の暑さでしょう。11時近くまでのんびりして帰路に着く。予想どうり熱海は凄い渋滞。GWほどではないけれど。

・西湘バイパスをおりたら平塚からまた大渋滞。あちこちの駐車場で長い入庫町の行列。この暑いのに大変そう。その列が一般道を一車線塞いでいるからまた渋滞。茅ヶ崎、江ノ島、鎌倉あたりまでPマークのあるところは全部駐車場待ちの長い車の列とさらに長い渋滞が出来ていた。

・今年はなんだか海に入りたいって気持ちにならないなぁ。べとつくし、この辺の海は青くもないし、濁っているし・・・・・・。

・そういえば茅ヶ崎の浜降り祭りが今日の朝あったようだ。一度観てみたいと思っているのだけれど他の用事と重なって一度も見た事が無い。今年から海の日に行うと日程変更になっているようなので、来年は見たいなぁ。

・梅雨も大して暑くなく、雨もすくなかったし、今年の夏はそんなに暑さを感じていない。海の近くにいるせであって、東京に行けばヒートアイランドなんだろうけれど・・・。

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2009年7月18日 (土)

「小説家の開高さん」3

・とくとくと寝る前に繰り返し読んでいる。
・この小説の話は著者の実際の体験に基づいているのだろうけれど、何割が脚色されてるのかな? なんて余計なことを考えたりして。
・実在の人はニックネームになっていたり、仮名を使っているのだろう。
・骨董屋の善二さんの章に出てくる落ちぶれていく小野留吉という画家、これは誰か別の名前の画家のことなんだろうな。
・ジョン・レノンが日本にお忍びで来たときに応対した善二さん。善二さんがレノンとヨーコと一緒に写っているというグラビアの写真を見てみたいものだ。
・オカマの次郎さんも短編としてかなり面白い、そして寂しさもある。
・タイトルとなった開高健と一緒にスコットランドで釣りをした話し。そして有名なフライタイヤーの元を訪れ、開高健がぺしゃんこになるくらい打ちひしがれたという話し。豪放快楽に見えても繊細だったという開高健のエピソードとしてとてもうなづける話しである。

「人間はやってしまったことに対する後悔よりも、やらないでしまったことに対する後悔の方が大きいものなのだ・・・」
確かどこかでこの原典などが紹介されていたと思うのだが・・・思い出せない。

「やりたいことをやり尽くしなさい。飲み尽くしなさい。後で戻ってきても何も残っていないのだよ」開高健の言葉に通じる。

「豊かさを目指して行き着いたところに砂漠が広がっている・・・」
重たい言葉だ。

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2009年7月17日 (金)

『小説家の開高さん』著者:渡辺裕一 を読んだが・・・

・んー、フライの雑誌の編集長は「読者を選ばない新しいエンターテイメント文学」と言っていたようであるが、この10編の短編集は想像以上に重いものばかりだ。エンターテイメント(娯楽)小説というのはちょっと違うような気もするな。
・1949年生まれで今年で60歳の作者渡辺裕一氏はコピーライターの世界では有名な方だという。なるほど、文章は端正で背筋をしゃんと伸ばして書いているような感じさえある。
・若い頃の世界放浪の旅の話しは面白い。だがその他の話は面白い以上に重い。グツと胸に来るような話しだ。
・それぞれの短編の主人公たる人物が、人生波瀾万丈、様々な苦労、挫折、失敗を繰り返しながらもなんとか生き続け人生を送っている、そしてもうだいぶ歳をとってしまって人生を振り返るようになった・・・そういう話しが全体の中に一本の太い流れとして横たわっている。
・60歳くらいになると自分もこんな風に今までを思い起こすようになるのかな?
・読んでいてちょっと胸が苦しくなって、一気に楽しんで読むというような類の話ではなかった。ズシリと胸に、心にきた。
・確かにヘミング・ウェイ的ではあるけれど、ヘミング・ウェイはアメリカ人ということもあったし、翻訳された日本語も乾いた感じがした。でも渡辺氏のこの本は、日本的な湿度と重さを持っているようだ。カラッとはしていない。
・なかなかのいい話ばかりなのだけど、気軽に読むにはヘビー過ぎた。んー、予想外の中身に驚いたし。
・最後の一遍はいかにもヘミングウェイ的だけど、ちょっとやりすぎかな?
・それでもこれは読んで良かったと思える一冊であった。

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2009年7月16日 (木)

2009年亀ヶ岡祭礼 逗子のお祭り 7/15-16

Imgp0222 Imgp0223 Imgp0224 Imgp0225 ・逗子と言えば名前は通っているけれど、逗子のお祭りと言っても地元商店街と亀ヶ岡神社の祭礼であるから、わざわざこのお祭りに遠くから人が来るというわけでもない。平日でもあるし。そのおかげでこのお祭り、古い田舎のお祭りの雰囲気がとっても残っている。
・平塚七夕は有名で凄い人が集まるけれど、平塚の町中が出店だらけで、なんだか夏の大売り出しってかんじ。大きな七夕飾りは綺麗だけれど、そこら中に人が座ってかき氷やら、焼きそばやらを食べてるって感じ・・・仙台七夕も似てたかな? なんだかお祭りって雰囲気に遠い。
・逗子のお祭りも逗子銀座商店街の通りは全部出店だから似たような感じだけれど、亀ヶ岡神社の敷地内はすごくいい感じ。神社の敷地が出店だらけになっていいのかな?とも思うけれど神さまもこのときは許してくれるのでしょう。少し暗くなってから行ってみるともう凄い人。この町にこんなに人がいたっけ?って感じ。
・圧倒的に子供達が多いよね!小学生、中学生、高校生? 中学生位の女の子、男の子が一番多い感じがする。有名な祭りだと大人の方が多いんだけれど、この逗子のお祭りは子供達の為のお祭りって感じがするな。
・出店で売ってるものなんて大して美味しい訳じゃないし、どちらかと言えばあまり美味しいものじゃないんだけれど、子供の頃はね、やっぱりお祭りに行って出店で焼きそばとかかき氷を買って食べるのが楽しかったし、美味しかった。子供達の姿を見ていると自分が歳をとったなってちょっと思ってしまい寂しさも?
・浴衣を着て、出店に並ぶ子供達、金魚すくいはやっぱり風情あるなぁと思ったけれどなんだか人気が無いみたいで、お父さんがちっちゃい子供にすくい方を教えてるだけだった。小学生や中学生はカードゲームの出店だとか、金魚すくいよりも食べることに夢中ってかんじかな? 飲食系の出店がほとんどで遊技系の出店はあんまり多くない感じだった。
・夏の一日、ちょっと缶ビールを手に持って飲みながら、浴衣を着たかわいい子供達が嬉しそうに亀ヶ岡神社の中を歩いてるのを見てると、とっても日本ぽくていいなぁと思った。小さな町の小さなお祭りだから俗化して無くていいんだろうなぁ。
・子供の頃ってお祭りが本当に楽しみだった。なんだかそんな気持ちを少し思い出させてくれるような小さなお祭り・・・いい感じだね。

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2009年7月14日 (火)

『小説家の開高さん』 開高健没後20周年の新しい本が出ていた。

・茅ヶ崎の開高健記念館には度々足を運んでいるが、この本が出るということは知らなかった。内容を確認したら開高健に関することは一章だけのようであるけれど、興味はある。

・タイトルに「開高健」を使うのもやはり販売戦略的であろう。無名に近い著者の初めての本、どうやって多くの目をひきつけるかとなれば・・・これはこれで仕方あるまい。開高健と書いてあるだけで一桁、二桁違う売り上げになるだろうから。

・発売は6月25日頃だったのかな? 池袋サンスイでイベントもあったようだ。ネットが無ければずっと知らずにいたかも?やはりネット、メルマガなどは役に立っているなと実感。

・評判も割りと良いようなので読んでみようかな?近くの図書館にでも入れば直ぐに借りたいけれど・・・。

・開高健没後20年ということで今年は青柳陽一氏が写真集『河は眠らない』(文藝春秋)を出した。もう少し開高健絡みの書物などが出るのかな? 開高健さんが生きている間に一度会ってみたかった、話をしてみたかった・・・そういう風に考えるようになったときはもう遅かったのだけれど。

 小説家の開高さん 小説家の開高さん
販売元:セブンアンドワイ
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Book 小説家の開高さん

著者:渡辺 裕一
販売元:フライの雑誌社
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 河は眠らない 河は眠らない
販売元:セブンアンドワイ
セブンアンドワイで詳細を確認する
河は眠らない Book 河は眠らない

著者:青柳 陽一,開高 健
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2009年7月 9日 (木)

7月8日(水)里川ルアー釣行 しぶい

・昨日からの雨も上がり、どんよりとした曇り空。魚も動いているだろうなぁと思って午後になってから里川に行くことを決める。ちょっと空模様が心配だったが天気予報ではなんとか晴れに向かっているらしい。

・ずっと雨でエアフィルターに水が入ったのかバイクの調子が悪い。トルクがない。燃費最悪。リッター20キロになっている・・・・涙 最高は32キロ位だったのになぁ。

・箱根は雲に包まれていて雨になる。引き返そうかと思ったがガソリンがなくなりそう。仕方なく次のガソリンスタンドまではしることとする。

・途中ちょっと道を間違えてかなり遠くまで来てしまう。実際入渓地点に着いたのは4時過ぎ。

・川に着いた頃には雨も上がり、雲は物凄く動いていたけれどなんとか釣りにはなりそう。バイクを駐車しようとしたら地元の人に「ここは作業者が来るからもっと上に」と言われしぶしぶ移動。入渓は4時半。あまりゆっくりもしてられないので今日は丹念に叩くのはやめて、めぼしい場所をとんとんとルアーを引いて早く上に上がることとする。

・川の水位は大したこと無いが流れは結構早い。水も少し濁り気味。こういう日は流れの弱いところだろうなと思う。

・入渓して直ぐの先日ブラウンをばらしたポイントでヒット。小さいのをでそのままロッドで抜き上げ山女かアマゴかを確認しようとしたが、手元によせたところで暴れてフックアウト。多分アマゴ。

・少し上ったプールでヒット。ぐんぐん引くのでこれは?と思ったら案の定虹鱒。なぜか虹鱒はフックアウトすることがない。ヤマメ、アマゴと違って食い方が飲み込む感じなのだろう。ヤマメ、アマゴは直ぐフックアウトするんだけどねぇ。Imgp0220 Imgp0221

・急ぎで上ったので最後の橋まで約一時間で来てしまった。橋の下でもういっぴきまた虹鱒ヒット。上流で虹鱒を放流したのか?鰭丸の完璧な放流魚体。でも小一時間で3匹だから良いとするか。

・橋から上流をやろうと思ったが、最近はあまり良い思いをしていないのでもう少し上を叩こうと移動すると知人の車が・・・。電話すると橋から上に上がっている途中とのこと。上流で待ってるよと連絡。

・上流部で少しルアーを引くが反応なし。知人が6時半頃上がってきた。「大きめのは3回でたけれど全部食いが浅くばれてしまった。小さいのがたくさんいる。多分今年生まれたのではないか? ここから上の方は畦道から竿を出せるので毎朝、毎夕餌師が竿をだしている。抜かれまくっているから可能性は低い」とのこと。

・秋口に期待したいけれど、この小さな川もなんだか人に知れちゃってどうなるかな?大きいのが出ることもあるのだけれど、それも運。なぜか自分が入った時は20センチクラスばかり。後は餌師もルアーもフライも竿を振れないような上流の細いところに40クラスがいるとも聞く。んー、一度は釣ってみたいねぇ。

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2009年7月 7日 (火)

森戸神社 七夕まつり ささやかだけど厳か 7月7日(火)

・本日は七夕の日だけれど、相模湾一帯は梅雨時によく発生する霧で覆われ、大崎も半分から上がガスに包まれていた。

・ちょっと海を見に森戸神社に行った所3時から七夕まつりを行うということで参列。

・少し時間があったので駐車場の奥の夕焼け絶景ポイントから海を眺めるが、やはりここから見る海は素敵な景色である。

Kc3i0007_2 ・3時ちょっと前に境内に行くと、本殿に入るようにと促される。神社の本殿に入るというのはめったにないことで、日本人としてやはりちょっと厳かな気持ちになり緊張する。

・来ていたのは平日の午後3時ということもあり、17,8人位かな? 鎌倉などと違い、葉山の小さな神社での七夕まつり、きっと昔はあちこちの神社でこういうことが行われていたんだろなと思う。この森戸神社で初めて七夕の儀式に参加できたというのは幸運だったかも。儀式の始まりに太鼓が打ち鳴らされると体の中の煩悩、雑念が体から弾き飛ばされていくかのような感覚になる。

・神主さまと巫女さまが二人でお祈りをし、参加者のお払いをし、巫女さまの巫女舞が奉納され厳かに儀式が執り行われた。時間にして15分ほどであったけれど、心が洗われるような気持ちがした。

・最後に参列した人に穀物が配られる・・・「東ハト・キャラメルコーン期間限定七夕の夢」でした。delicious 最初はえっとおもったけれど、まあこういうのもありかな? いかにも葉山の小さな神社の儀式というかんじで、ちょっと苦笑しつつも気持ちが良いものだった。

Kc3i0005_3 Kc3i0006_2 ・七夕短冊を200円で購入して願掛け。

・いい夏の午後。 厳粛な日本の神様の儀式。

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2009年7月 5日 (日)

日曜日の葉山港 混雑 7月5日(日)

Hayama3Hayama2 ・ 朝早く起きてしまったのでちょっと散歩がてらに葉山港に行く。葉山の港というとその昔はあぶずり港を指していたと思うのだけれど、葉山マリーナの拡張工事、あぶずりマリーナの拡張工事と続いて、あぶずり港の沖合に大きな堤防が作られて、あぶずりマリーナもでかくなり、それで葉山港と言われるようになった。自分的には葉山の沖堤防なんて呼んでいたけれど。
・朝8時頃に逗子マリーナ脇の道から県営駐車場に入っていくともう駐車場はいっぱい。堤防へのゲートが二つあるのだが、釣り人がゲートの前に並んで待っている。ここでも順番待ちか? 1人の人も、グループで来ている人も、黒鯛竿を持っている人、エギングの用意をしている人(これが一番多かった)長尺の玉網も用意されていてみなさん本気モードの様子。
Hayama4Hayama5・この葉山の堤防は駐車場が結構高いから一日ここで釣りしているとばかにならない駐車場代金となるのだけれど、それでも都心から来てなにか魚釣りしたいという人にはいい場所なんだろうね。あんまりごちゃごちゃしていないし。地元にいると敢えて目の前で釣りをしようという気持ちが出なくなっているのだが。こっちに移り住んできた10数年前はしょっちゅう釣りにばかりいってたけれど。アオリイカ、メバル、カマス、スズキとあれこれ釣れたモンなぁ。それがあきちゃって今じゃ海よりも淡水が好みになってしまった。

・海のそばに住みたいという人は世の中めちゃくちゃ多いのだけれど、実際海のそばに住んで数年経つと、確かに心地良い場所ではあるのだけれど、浜に出ることもすくなくなったし、べと付かない淡水の釣りのほうがいいやと伊豆や山梨まで行くようになってしまった。
結局、男は自分が居るところ以外のどこかへ行きたいのだろうね。ここ以外のどこかへ。

・8時半のゲートオープンまで待っている気もしなかったのであぶずり港の日曜市にでもよろうかと思い戻り始めると、駐車場入り口にはずらりと車が。満杯でもう入れないみたい。次々後ろから車がやってきてあぶずり食堂の方まで繋がった。
んー、なんだかなぁ。
・都心での仕事につかれ皆自然を求めて海に来てしまうのかもしれないけれど、ここでこんな風に駐車場まちまでしてやってきても・・・・と住んでいる人間は思ってしまう。たぶんここに住んでいるからここの有り難みが分からなくなっているのかもしれないけれど、都会に住んでいるとここに来ることもレジャーであり癒しなんだろうね。
ふー、溜息。

夕方になってもう一度行ってみた。風も出てきていたせいか、釣り人は殆ど帰っていて二人位しかいない。墨跡は一つだけあった。駐車場から上る階段のところにコンビニ袋に詰まったゴミが数個放置されていた。コマセやらサビキ仕掛の袋や台紙などがいっぱい入った状態で放置。この位のゴミ持ち帰れよと思う。もしこの堤防にゴミ籠でも置いたらあっという間に満杯になってしまうんだろうなぁ。きっと海にもたくさんゴミは捨てられているだろう。癒しをもとめて海に来て、その海を汚して帰っていく・・・・マナーどうこう言っても変わらぬ人は変わらぬだろうし・・・・。

海も20年前、10年前から比べたら相当に汚くなった。浜で泳ごうという気持ちにもなれないくらい海水は汚れている。少なくとも10年前は浜辺近くでも海の水は綺麗だった。

去年は地元の浜で泳ぐ気持ちにななれず、水通しが良くてこの辺でも一番綺麗な長者ケ崎で泳いだ・・・・それでもかなり海水は汚れ濁っていた・・・・あと10年したらどうなるのだろう。海の家は殆どライブハウスみたいなものばかりになってきているし・・・・確実に自然環境は悪化しているのだけれど、最近はそれを声高にいうマスコミも少ない。次の世代に自然はどうなってしまうのだろう・・・空だけは変わりなく青い。心が少し痛む夕暮れだった。

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2009年6月26日 (金)

『松川湖 減水開始』6月23日(火)

・バンさんのブログによると6月23日(火)に松川湖の減水が開始された模様。水位が3,4mも下がるのだから当面は釣りにはならない。というか6月にもなると日中気温が上がり過ぎるし湖の水温も高くなって魚はダムサイトの底に移動し、朝夕位しか浮いてはこないからほとんど釣りはおしまいなのだが。

GensuiGensi2  ・2009年から松川湖は2月の禁漁期間がなくなり、通年解禁になった。今年最初の日である2月1日はそこそこ大量の魚が放流されたこともあり、なかなか大釣りが出来た。その後は3月下旬までは調子が良かったかな?年をこしたような大型のギンピカ、ブリブリの虹鱒が連続して上がった。雨が降ったりするとダムサイトの深場から大型がインレットに上がってきて積極的にフライも追った。60近いサイズでジャンプを繰り返すサクラマスのごときレインボーは最高だった。

Niji2

・2月1日から6月7日までの4ヶ月間にお泊り中心で行ったので25日位は松川湖に通っていたことになる。ほとんど週末全部か。汗 おかげで今年はイイ釣りが出来た。 放流量が減った、川底が泥で埋まったなど昔から考えるとマイナス要因の多い松川湖だけれど、小ぶりなリザーバーとして自分としてはちょうどいい釣り場。   

Niji

・年券も数年前に5000円から8000円に値上げされ、どうなのよ?と思っていたがもう既にこれだけの回数通っているとなると一日当たり400円位の入漁料ということになる。年券を買っても実は2月から6月頭までの4ヶ月ちょいしか釣りはしないわけだけれど、これだけ楽しませてもらっていれば充分である。
・減水が完了するとあとは雨が降った後に流れ込みに集まってくる虹鱒を狙う位しか釣り様がなくなり、よほどのことが無い限り秋に再び満水になるまで松川湖に行くことも無いであろう。2008年秋は12月になって2回行っただけであった。

・夏場に条件が良い日があれば一回位いくかもしれないけど、今年はほとんど終わりかな? ちょっと寂しい気持ちもあるけれど、たくさん楽しませてもらったのだから感謝しておこう。

・暑い夏場はやはり渓流しかないし。

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雨の後の里川釣行 2009/6/25(金)

●昨晩はかなり雨が降ったがそれも止み、午後には水量も落ち着くだろうと里川行きを決める。スプーンさんに連絡して午後二時合流。案の定水位はだいぶ落ちてこれなら大丈夫という状態。

川の中ほどから入渓し、少し釣り下る。S氏は早速アマゴをヒット!こちらは反応なし。上り返して丹念にポイントを叩くが、反応が無い。やはり大雨の後、まだ魚たちは流れに流されぬよう川底ぺったりに張り付いているのか、岩の間に身を隠して潜んでいるのか、とにかく活性は低いようだ。

相当に丹念にミノーを引いて時間を掛けて上がる。途中小さな虹鱒がヒット。虹鱒は食いがあらく、バレ難いのがいいが渓流でこのサイズを釣っても嬉しくない。S氏も虹鱒一匹。

二日前に大型ブラウンを逃がしたポイントも反応なし。

別のポイントで一匹チェイス確認。その後最後の大場所でようやく一匹チビメがヒット。川から抜き上げようとしたらポチャン。まあ釣れたこととしよう。S氏も同じ場所で一匹ヒット。

最後の大場所も当たりなし。ここでは本流大型ヤマメも出ているのだが。S氏はヘビーシンキング・ミノーで底を引いたら一度バイトがあったと言う。

道に上がる手前の平場はいつも釣れないので余り本気でミノーを投げなかったが、ここでS氏に一匹アマゴがヒット。足元でバレた。何故にヤマメ、アマゴはこんなにばれやすいのだろう? 最後の橋下ポイントも当たりなし。2時半頃から開始して5時40分位まで通常よりも倍近く時間をかけて遡行した。

それにしても、魚の気配が薄い。雨の後で魚は動いているはずなのだが。やはりもう一日置いた方が良かったか?水は笹濁り。先行者は居ない。それでもこのチェイスの無さは異常。小さい川だし、雨の後は一日置いた方が今後はいいかも? 最下流の貯水場堰堤が魚止めとなっていて本流から魚は上がってこれないということだから、この川に居た魚たちは今どこに行ってしまったのか? 去年は一匹も釣れなかった虹鱒が今年はもう3匹も釣れている。上流での放流に虹鱒が混じったのか? ブラウンが釣れるというのも不思議な川である。

そろそろ渇水だが、また時間を見て行って見よう。それとも秋の方がいいかな?

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